経済記者「一線リポート」

急逝した三菱自の益子氏が残した「負の遺産を学ぶ場」

工藤昭久・毎日新聞経済部記者
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長く三菱自動車の経営トップを務めた益子修氏=東京都港区で2019年1月18日、柳沢亮撮影
長く三菱自動車の経営トップを務めた益子修氏=東京都港区で2019年1月18日、柳沢亮撮影

 15年にわたり、社長や会長として三菱自動車の経営を率いた益子修氏が8月27日、心不全のため急逝した。71歳だった。2000年代の大規模リコール(回収・無償修理)隠し問題、16年に発覚した燃費不正問題と度重なる不祥事で、経営危機に直面した三菱自の改革と経営再建に取り組んだ経営者だ。

 燃費不正発覚後には日産自動車との資本業務提携をまとめ上げ、日産、仏ルノーとの3社連合の関係強化にも尽力した。8月7日に健康上の理由で会長を退任したばかり。長く益子氏を取材した私は、早すぎる死に言葉を失った。

 益子氏が古巣の三菱商事から三菱自に常務として送り込まれたのは04年。三菱自は00年に続く2度目のリコール隠しによって経営破綻の瀬戸際に追い込まれていた。

 リコール隠しの過程では、車両の不具合によって大型トラックのタイヤが外れ、母子3人が死傷する痛ましい事故が発生した。役員が訴追されて社会的にも大きな批判を浴び、深刻な販売不振に陥った。池井戸潤氏の小説「空飛ぶタイヤ」の題材にもなった不祥事だ。

 追い打ちをかけるように、経営再建を主導していた筆頭株主の独ダイムラークライスラー(現ダイムラー)が支援打ち切りを決定。窮地に陥った三菱自支援のため、三菱重工業、三菱商事、三菱UFJ銀行の三菱御三家が中心となって再建に乗り出した。人材面の支援も必要だとして白羽の矢が立ったのが、三菱商事で海外の自動車事業に精通していた益子氏だった。

 益子氏は商社マンらしい明るいキャラクターとフットワークの軽さが持ち味。05年1月に社長に昇格してからも、社員とのコミュニケーションや三菱グループの大株主の幹部との交渉などでも「人たら…

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工藤昭久

毎日新聞経済部記者

 1974年生まれ。立教大学法学部卒。生命保険会社勤務を経て、2000年毎日新聞社入社。静岡、浜松支局を経て04年から東京経済部。財務、総務、経済産業、農林水産などの中央官庁や産業界、金融業界、財界などを幅広く取材。18年4月から大阪経済部編集委員として関西経済を取材。20年4月から経産、農水両省、エネルギー業界の取材を束ねるキャップ。