藻谷浩介の世界「来た・見た・考えた」

世界遺産「モザンビーク島」天正遣欧少年使節が見た海

藻谷浩介・地域エコノミスト
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モザンビーク島の小さな市場にいた子供たち(写真は筆者撮影)
モザンビーク島の小さな市場にいた子供たち(写真は筆者撮影)

モザンビーク島編(2)

 大航海時代にポルトガルの拠点となり、日欧の交流の中継地となったアフリカ東部のモザンビーク島。1991年に世界遺産に登録された。天正遣欧少年使節が帰路に半年間も滞在したという小島で、彼らも見たであろう海を眺めた後、体調に異変が起きる。もしかして入ってはならない場所に入ってしまったのだろうか。

奴隷貿易にも手を染める

 モザンビーク島を訪れたのは2019年8月。島の北東端にあるサン・セバスティアン要塞(ようさい)を見たので、今度は南西に向かってみよう。先ほど見た旧総督邸の先には、南欧風のカラフルな街並みがしばらく続く。白い砂と、原色の花々と、パステルカラーの建物のコントラストが奇麗だ。だがその先の一角には、この島の歴史の負の部分が、記念公園として残されていた。

 門番に入場料180円を払って入ると、美しい庭園になっている。だが隅には半地下の石造構造物が残っていて、何やら陰惨な感じがした。ポルトガルは、アフリカ西岸ではアンゴラ、東岸ではモザンビーク島のこの場所を拠点に、1858年まで奴隷貿易を行っていたのである。

 長崎を追われて日本との貿易をやめ、モルッカ諸島(マルク諸島)との香料貿易の主導権をオランダに奪われた後は(「東ティモール 独立までの苦難と今は平和なディリの街」<2018年7月2日>参照)、ザンジバル(タンザニア沖)の領主から購入した奴隷を新大陸に売りさばくことが、この島のビジネスの中心となっていたのだ。

千々石ミゲルに思うこと

 天正遣欧少年使節の4人がこの島を経由してローマに往復したのは、1582~90年だが、うち3人が帰国後もキリスト教に殉じ…

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藻谷浩介

地域エコノミスト

1964年山口県生まれ。平成大合併前の約3200市町村のすべて、海外114カ国を私費で訪問し、地域特性を多面的に把握する。2000年ごろから地域振興や人口問題に関して精力的に研究、執筆、講演を行う。著書に「デフレの正体」「里山資本主義」ほか多数。国内の鉄道(鉄軌道)全線を完乗した鉄道マニアでもある。