
JR只見線の会津川口―只見間(福島県)が10月1日、約11年ぶりに営業運転を再開した。2011年7月の豪雨災害で橋が3カ所も流失するなど、甚大な被害を受けた区間だ。再開当日は会津川口駅や只見駅の駅前で盛大なイベントが開かれ、運転再開を喜ぶ声であふれた。
実はこの日、下り(会津若松発)の一番列車が途中で故障し、その場から動けなくなるトラブルもあった。私も偶然、乗り合わせ、救援のバスを待つことになったのだが、この日を待ちわびた乗客たちの中には「これくらい待つのは大したことではない」という雰囲気さえあった。これまで11年も待っていたのだ。
観光需要も復活のカギに
運転再開まで時間がかかった理由は、流された橋の再建工事の難しさもさることながら、JR東日本と地元・福島県との協議が難航したからだ。そもそも鉄道として復旧するのが適切なのか、復旧するとしても運転再開後の赤字をどうするのか。議論は長年にわたり、JR東日本からはバス路線への転換も提起された。
最終的にJR東日本が線路などのインフラを福島県に無償譲渡。運転再開後の保守管理や赤字の補塡(ほてん)は地元負担とし、JR東日本は復旧工事の後、列車の運行など営業のみを行うことで話がまとまった。その後、工事が始まったのは18年、豪雨被害から7年後のことだ。
運転再開後、復旧区間の定期列車は1日3往復。被災前のダイヤと大差はない。利用客の中心は全国のローカル線の例に漏れず高校生なので、通学の便を考えてダイヤが組まれている。
ただ観光列車の積極的な乗り入れも行っており、この10月は臨時観光列車、ツアー専用列車を織り交ぜ、多彩な列車が週末ごとに走る。
この観光需要が只見線を復活させた原動力の一つだった。沿線は只見川の風景など数々の絶景で知られ、特に冬の雪景色は台湾をはじめアジアからの観光客を大勢呼び込んでいた。
鉄道がなくなれば地元を潤していた観光需要も失われていく。その危機感に加え地域住民の愛着もあり、被災以来、路線存続を求めるPR活動が積極的に行われていた。それが最終的に自治体やJR東日本を動かすことになった。
バス路線に転換したところも
一方、地元自治体の支援を得られず消えていくローカル線も多い。特にJR北海道の路線は複数区間で存続の危機にあり、札沼線の北海道医療大学―新十津川間(20年…
この記事は有料記事です。
残り593文字(全文1569文字)