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蚊に殺された僕らのヒーロー

谷口恭・太融寺町谷口医院院長

「世界一恐ろしい生物=蚊」の実態を知る【3】

 前回は帝国陸軍に強制疎開させられマラリアの犠牲となった人々について述べました。今回は見方を変えて、マラリアの犠牲となった軍側のひとりの人物を紹介したいと思います。

太平洋戦争中で最も有名な日本人の1人

 その人物は、おそらく日本史の歴史の教科書には載っておらず、靖国神社に慰霊されているわけでもありません。では、あまり知られていない人物なのかといえば、そういうわけではなく、おそらく1960年ごろまでに生まれた人ならほぼ例外なく知っているはずであり、日本で最も有名な太平洋戦争時代の人物のひとりと言ってもいいかもしれません。

 その人物の名は谷豊(たに・ゆたか)です。そんな名前聞いたことがないという人もいるでしょう。しかし「怪傑ハリマオ」と言われれば誰もが知っているのではないでしょうか。

 「怪傑ハリマオ」は60年〜61年にかけて放送されていた子供向けの日本のテレビ番組です。68年生まれの私はこの番組を再放送でも見た記憶がありません。しかし、名前は知っていて「ハリマオ」といえば「月光仮面」と並ぶ子供たちのヒーローというイメージが強くあります。たしか「ハリマオガム」というチューインガムが、私が子供のころにもあったと記憶しています。

 その「ハリマオ」が実在した人物であることを知ったのは私が大人になってからで、本名が谷豊であり、太平洋戦争で日本軍の諜報(ちょうほう)員のような活動をしていたということを知ったのは、さらにその後でした。

実在していた「怪傑ハリマオ」

 谷豊は1911年に福岡県で生まれ、2歳の時に一家で現在のクアラトレンガヌ(マレーシア東海岸の都市)に移住します。5歳で日本に帰国し小学校に入りますが、13歳のころには再びマレーシアに渡り10代を過ごします。20歳になったとき徴兵検査を受けるために帰国するものの不合格になったそうです。この理由は諸説ありますが、身長が足らなかったとするものが有力です。

 同時期に悲劇が起こります。谷豊が日本滞在中に満州事変が起こりマレーシアの華僑が排日暴動を起こし、なんと妹が暴徒と化した華僑に斬首され、その首がさらしものにされたのです。

 日本でこれを知った谷豊は怒りに身を任せ単身マレーシアに乗り込みます。そして10代を共に過ごしたマレー人の若者たちと徒党を組み、華僑の悪党たちを襲撃する盗賊団を結成しリーダーになります。これが「快傑ハリマオ」の原形です。

 陸軍の特務機関「藤原機関」、通称「F機関」はこのハリマオに目をつけました。マレー語を完璧に話し、土地に詳しく、3000人の手下を従えたハリマオを陸軍のスパイとして迎え入れたのです。もっとも、3000人というのは誇張された数字であるとする説が多く、実際どの程度の力があったのかは定かではありません。マレー語で「虎」を表す「ハリマオ」という名称も後から付けられたという話もあります。

 しかし、中野不二男著「マレーの虎ハリマオ伝説」(文春文庫)によれば、F機関長であった藤原岩市が谷豊を「ハリマオ」と呼んでいたのは間違いないようで、ある程度は存命の頃から英雄視されていたのは事実でしょう。

英雄の命を奪ったマラリア

 そのハリマオが命を落としたのがマラリアです。ハリマオの任務のひとつにイギリス軍が作った橋を壊すという作戦があり、実行のためにジャングルの中を駆けずり回っていたのでしょう。マレー半島のジャングルはマラリア流行地域です。

マラリア原虫の標本(中央の青色の部分)
マラリア原虫の標本(中央の青色の部分)

 マラリアは生物学的には「原虫」と呼ばれる生物の仲間です。ハマダラカという夜間に活動する蚊が媒介します。ハマダラカに刺されマラリアが体内に入ると、しばらくしてから発熱や嘔吐(おうと)、下痢といった症状がでてきます。マラリアにも複数の種類があり比較的軽症で済むものもありますが、致死的となるタイプのものもあります。

 強靱(きょうじん)な肉体を有していたハリマオもマラリアには打ち勝つことはできず、次第に体力をなくし、部下たちの手でシンガポールの病院に担ぎ込まれます。

 ハリマオはF機関の諜報員になる前からイスラム教に帰依しており西洋を敵対視していたそうです。これは定かではない情報ですが、当時存在していたマラリアの特効薬「キニーネ」を「白人のつくった薬など使いたくない」と言い最後まで拒否したそうです。そして30歳(32歳とする説もあります)の生涯を終えることになったのです。

 もしもそのときその蚊が谷豊に近づかなければ……。ハリマオの活躍で戦況が変わり歴史が違うものになった、と空想してしまうのは私だけでしょうか……。

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太融寺町谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。