実践!感染症講義 -命を救う5分の知識-

日本でも次第に増大するリスク エンテロウイルスの謎【後編】

谷口恭・太融寺町谷口医院院長
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 ここ数年、世界で突如流行し、深刻な事態を引き起こしている「エンテロウイルス」。特に2014年からは「エンテロウイルスD68」というタイプが米国でアウトブレイク(限定された範囲内での感染の大流行)を起こしました。患者となるのは主に子供たち、そして突然、手足が動かなくなる急性弛緩(しかん)性まひなどの神経症状が表れるのが特徴です。専門家が警戒していたこの感染症のリスクが日本でも高まってきました。

2015年夏からまひの症例が急増

 国立感染症研究所によると、05年から14年9月までに31都府県の272人からエンテロウイルスD68が検出されていて、夏から秋にかけて感染者が増加する傾向があります。10年、13年には感染者数が100人を超えました。しかしこの時点では重症化するケースはまれであり、あまり大きな問題にはなっていませんでした。

 ところが15年8月以降、急性弛緩性まひの報告が相次ぎ、一部の患者からエンテロウイルスD68が検出されたのです。これはエンテロウイルスD68が引き起こした急性弛緩性まひが増加していることを強く示唆しています。そのため、厚生労働省は15年10月21日、全国の主に小児科の医療機関に対して「急性弛緩性麻痺(AFP)を認める症例の実態把握について(協力依頼)」という事務連絡を出し、実態の把握に乗り出しました。

 現時点では、急性弛緩性まひを発症した全例からウイルスが検出されているわけではなく、未解明の点もあるのですが、米国の状況と合わせて考えると、エンテロウイルスの今後の動向には十分な注意を払うべきだと言えます。

1型糖尿病を発症させる危険性まで

 そして、エンテロウイルスが注目されている理由はもう一つあります。このウイルスに感染すると「1型糖尿病」のリスクが上昇するという報告があるのです。1型糖尿病とは、肥満などの生活習慣が原因ではなく、体の免疫機能がインスリンを作る膵臓(すいぞう)の細胞を破壊してしまうことで起きる糖尿病で、小児も発症するのが特徴です。14年10月、台湾の研究チームが発表した論文(注1)によると、台湾の健康保険請求データに基づいた解析から、エンテロウイルス感染歴のある小児は、感染歴のない小児に比べ1型糖尿病発症リスクが48%高くなるというのです。

 死亡例があり、急性弛緩性まひのような重い神経の後遺症を残すことがあり、さらに1型糖尿病のリスクも挙げるエンテロウイルス。前回解説したように、単なる夏風邪の扱いだった手足口病の原因、エンテロウイルス71がカンボジアやオーストラリアで猛威を振るい、1962年の発見以来問題が起きなかったエンテロウイルスD68が突如としてアメリカ、そして日本で脅威となっています。

インフルエンザウイルスに似た「変異しやすい」ウイルス

2本鎖(左)と1本鎖の比較。どちらも4種類の塩基がつらなって構成されている。2本鎖では、それぞれの塩基は相対する鎖の塩基と結合しているため、安定していて変異を起こしにくい。1本鎖ではそのような仕組みがないため、安定が得られず頻繁に変異が起こる
2本鎖(左)と1本鎖の比較。どちらも4種類の塩基がつらなって構成されている。2本鎖では、それぞれの塩基は相対する鎖の塩基と結合しているため、安定していて変異を起こしにくい。1本鎖ではそのような仕組みがないため、安定が得られず頻繁に変異が起こる

 なぜ、このような事が起こるのでしょうか。鍵のひとつは遺伝子の「種類」です。エンテロウイルスの遺伝子はRNA型1本鎖という種類です。ヒトを含めてすべての生物は、遺伝子をDNA2本鎖、RNA2本鎖、DNA1本鎖、RNA1本鎖のいずれかの種類で持っており、どの種類の遺伝子を持つかにより「変異」の起こりやすさが変わってきます。エンテロウイルスは遺伝子をRNA型の1本鎖で持っています。一般にRNA型の遺伝子はDNA型の遺伝子より不安定で、変異のスピードはDNA型の100万倍以上と言われています。そして1本鎖と2本鎖の遺伝子では、2本鎖の方がはるかに安定しています。つまり遺伝子をRNA1本鎖でもつ生物は、私たち人間のようにDNA2本鎖の遺伝子を持つ生物の何百万倍、何千万倍、あるいはそれ以上のスピードで変異を起こすのです。新型が次々と現れるインフルエンザの遺伝子もRNA1本鎖だと言えば、その速度が分かると思います。

 つまり、インフルエンザウイルスが突然変異を起こして新型となり、かつて人類が経験したことのないような脅威となるのと同じように、エンテロウイルスもいきなり変異を起こし、ある日突然猛威をふるう可能性があったのです。手足口病が「子供に起こる軽症の夏風邪」だったのは変異が起こる前の話というわけです。

ワクチンはいまだなし……継続した監視が必要

 感染症で頼りになるのはワクチンです。エンテロウイルス属の代表であるポリオウイルスは、70年代までの日本では本当に恐ろしい感染症でした。ワクチンが導入される前は大勢の子供がポリオウイルスに感染し、生涯消えることのない「まひ」を残し、成人となった今も苦しまれています。60年には北海道を中心に5000人以上の患者が発生し、日本政府は翌年、ソ連から生ワクチンを緊急輸入して対応しました。これにより日本のポリオ患者は激減し、80年以降一例も発症していません。

 エンテロウイルスのワクチンは世界中で開発がすすめられていますが、まだ実用化には至っていません。13年1月には、中国の研究チームがエンテロウイルス71のワクチン開発を進めており、効果と安全性を確認している、と論文発表しています(注2)。しかし、その後実用化にいたったという話は聞きません。しかもこれは、すべてのエンテロウイルスに有効なわけではなく71のみを対象としたものです。米国が脅威の感染症と認定し、現在日本で流行し重い神経症状をきたすと考えられているエンテロウイルスD68のワクチンは目下のところ開発のめどがたっていません。

 当分の間、このウイルスの動向から目が離せません。

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注1:医学誌「Diabetologia」2014年10月17日号(オンライン版)掲載「Enterovirus infection is associated with an increased risk of childhood type 1 diabetes in Taiwan: a nationwide population-based cohort study

注2:医学誌「The Lancet」2013年1月24日号(オンライン版)掲載「Immunogenicity and safety of an enterovirus 71 vaccine in healthy Chinese children and infants: a randomised, double-blind, placebo-controlled phase 2 clinical trial

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谷口恭

太融寺町谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。