実践!感染症講義 -命を救う5分の知識-

HPVワクチンを理解するのに必要なこと

谷口恭・太融寺町谷口医院院長
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理解してから接種する−−「ワクチン」の本当の意味と効果【15】

 私が研修医として産婦人科で研修を受けていた2003年のこと。ベテランのK先生と雑談をしているとき、ヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチンの話題になりました。当時、世界で最もホットな医学トピックスの一つが、全世界で待ち望まれていたこの新しいワクチンだったのです。K先生は「このワクチンを最も必要としている国が日本」と言います。当時、日本の産婦人科医不足は小児科医不足と並んで深刻であり、妊娠しても分娩(ぶんべん)できる医療機関がないことが問題になっていました(この翌年、「福島県立大野病院産科医逮捕事件」が起こり産婦人科不足にさらに拍車がかかることになります)。

産科医療崩壊を防ぐ切り札? 世界が注目の新ワクチン

 なぜ日本でHPVワクチンが求められるのか。K先生は「このワクチンを女性全員が接種すれば、子宮頸(けい)がんの患者が大きく減少するため、産婦人科医の仕事の3分の1を減らせる」と言います。産婦人科医が余っている病院など日本にはなく、どこの病院も医師の取り合いです。私が研修を受けていたこの病院も同様で、部長クラスの先生でも月に10日近くもの当直をこなさなければなりませんでした。当たり前ですが分娩は時間を選ばず深夜にも起こります。

 4年後の07年4月、世界に先駆けてHPVワクチンの定期接種が開始されたのはオーストラリアでした。このニュースを知ったとき私はK先生のことを思い出しました。しかし、K先生には申し訳ないですが、「オーストラリアだからできることであって、日本での定期接種は当分ないだろう」というのが正直な感想でした。

性を知らずにHPVワクチンは理解できない

 その理由は二つあります。一つは、当時の私は日本の「性教育」の実態をある程度知っていたからです。私は研修医終了後、タイのエイズ施設にボランティアとして赴き、タイのエイズ孤児やHIV(エイズウイルス)感染者を支援する社会活動をおこなっていました。次第に日本でも活動を広げるようになり、その過程で日本の性教育というものを知るようになっていました。最近は、地域によってはかなり踏み込んだことまで小中学校で教えるようですが、それでも「性」のすべてを子供たちに伝えているわけではありません。一方で子供たちは独自に多くの「性」の知識を持っています。

中学3年生を対象にした性教育の授業で赤ちゃんをあやす男子生徒=横浜市内で2014年2月24日、山田麻未撮影
中学3年生を対象にした性教育の授業で赤ちゃんをあやす男子生徒=横浜市内で2014年2月24日、山田麻未撮影

 HPVワクチンの重要性を理解するには「性交」について正確に知ることが必要です。性交には「性感染症」というリスクが伴うこと、性感染症には「死に至る病」もあることなどの理解が必須です。それはワクチンを理解するのが子供たちであっても同様なのです。ワクチンの基本は「理解してから接種する」です。私は性に関する知識、情報を日本の子供たち、そして保護者に正確に伝えるには相当時間がかかると考えたのです。

優先すべき他の感染症は?

 二つ目の理由は、「HPVよりも先に定期接種にしなければならないワクチンがいくつもある」ということです。水痘、B型肝炎、おたふくかぜ、不活化ポリオ……と世界的に見るとただちに定期接種に加えなければならないワクチン、そうすれば高い確率で防げる感染症が(当時)いくつもあったのです。

 たとえば水痘ウイルスは、感染力が極めて強く「空気感染」が起こりえます。空気感染は「同じ教室にいるだけで感染することがある」と考えればいいと思います。一方、HPVは性行為がなければ感染しないものです。さて、ワクチンの定期化、どちらを先にすべきでしょうか。(水痘ワクチンが定期接種化されたのは14年10月です)

 水痘は感染してもほとんどが治ります。しかし免疫系の持病があれば重症化することがありますし、学校で感染し自宅で生まれたばかりの赤ちゃんに感染させると大変なことになります。成人に感染すれば「あばた」で生涯苦しめられることになることは以前、この連載でも述べました。

 B型肝炎はどうでしょうか。「誤解だらけのB型肝炎ウイルス」シリーズでも紹介した「佐賀県保育所集団感染事件」を思い出してください。ひとりの職員がきっかけで合計25人もの幼児と職員が感染しました。佐賀県のホームページによると感染ルートは玩具や食器などの可能性が考えられています。B型肝炎は「死に至る病」です。子供の集団生活で感染し「死に至る病」となることもあるB型肝炎ウイルス(HBV)、性的接触がなければ絶対に感染しないHPV、優先順位が高いのはどちらでしょうか。(B型肝炎ウイルスは16年10月から定期接種化されます)

予想に反して進む接種の体制構築

 07年4月のオーストラリアを皮切りに、世界中で次々とHPVワクチンの定期接種化が決まり、その後約2年半の間に100以上の国で承認されることになりました。そして09年12月、日本でもこのワクチンが承認され発売されることになりました。日本政府にしては迅速な決定です。厚生労働省の対応は高く評価されるものだと思います。海外では誰でもうてるのに、何で日本ではうてないの?という事態をなくすべきだからです。このときの私の気持ちは「承認されたのだから必要性の高い人たちに医師として伝えていかなければ」でした。一方で「定期接種になるにはまだ相当の年月が必要だろう……」という見通しも依然持っていました。

 予想は覆されます。日本での承認が報道された直後、新潟県魚沼市が希望する10代前半の女性を対象として接種費用全額を負担することを発表したのです。

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谷口恭

太融寺町谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。