
理解してから接種する−−「ワクチン」の本当の意味と効果【19】
私が研修医のころの話。ある日、子宮頸(けい)がんで入院しているある患者さん(Rさんとしておきます)のお姉さんから呼び止められました。
「先生、妹の病気は性病なんかじゃないですよね。ある人に妹のことを話すと、遠まわしな言い方なんですが『その病気は性病じゃないの』ってことを言われたんです。妹は夫しか知らないんですよ。それに妹の夫はとても誠実な人なんです……」
このお姉さんの言葉が、子宮頸がんがいかに世間で誤解されているかを表しています。たしかに子宮頸がんの原因となるヒトパピローマウイルス(HPV)は基本的には性的接触でしか感染しません。そういう意味ではたしかにHPV感染は「性行為による感染」と言えます。
世間に蔓延する「性感染症」への否定的イメージ
ただし、世間では「性行為による感染(性病)」には否定的なイメージがつきまといます。また、インターネットで調べると、HPV(のハイリスク型)に感染しやすい人は、性交開始年齢の早い人、不特定多数と性交渉をしている人、といったことが書かれています。たしかに、統計学的にはそういったことが言えるかもしれません。
しかし、私の臨床上の経験からいっても、子宮頸がんに罹患(りかん)している人や子宮頸がんの治療後の人はRさんのように生涯ただひとりの男性しか知らないという人も少なくないのです。おそらくRさんのご主人は、Rさんと知り合う前に別の女性との交際経験があったのでしょう。
米国に興味深いデータがあります。18〜25歳の女性3262人を対象にHPVの罹患率を調べた研究があり、それまでの性交渉の相手が1人だけの女性の14.3%にHPVが検出されたのです。この論文(注)では、結論として「ただ一人の男性しか知らなかったとしてもHPV罹患率は高い」としています。
私は「ワクチンは理解してから接種する」が基本だと言いました。そしてHPVワクチンについても、病原体の特徴、感染ルート、有効性、副作用などを理解しなければなりません。HPVの感染ルートはたしかに性交渉ですがここはしっかりと押さえておく必要があります。つまり、性交渉の人数が多いほどリスクが上昇するのはたしかだったとしても、性交渉の経験が少ない人にも感染することはある、ということは大変重要なことです。
「HPV感染のない人を恋人に」の発想
もうひとつ例をあげましょう。今度は太融寺町谷口医院の患者さんです。初診の患者さん(Nさんとします)が、次のような相談をされました。
「交際することになるかもしれない男性のHPV感染の有無を調べてもらえますか。うつされて、私ががんになったらイヤなので事前に調べたいんです……」
Nさんの考えは、「交際相手がHPV陰性であれば子宮頸がんの心配は不要であり、ワクチンも必要ない」というものでした。総合診療をおこなっている谷口医院ではいつも「健康のことで気になることがあればどんなことでも相談してください」と言っています。実際、患者さんはありとあらゆる相談をもってきます。大概の内容には動じないのですが、このときばかりは驚きました。
HPVワクチンが日本でも承認され定期接種に加わったことで、このようなことを言い出す人が出てきたのです。こういった発言が出てくること自体が世間の認識が不十分であることを示しています。女性の場合、HPVの存在が問題になるのは子宮頸部ですから、その部分を綿棒でぬぐうなどしてHPVの有無を調べることはできます。しかし男性の場合は、HPVが存在している可能性のある部位は尿道、亀頭、陰茎全体と広範囲になりさらに精液に含まれているかどうかも調べるとなると検体の採取が大変困難で現実的には行えません。ただし、私がNさんに言いたかったのは、男性の検査は方法が困難ということではなく、そのような理由で交際相手を選ぶのはおかしいのではないか、ということです。
中途半端な情報が偏見を生む可能性
性行為で感染する可能性のある病原体の有無で交際相手を選ぶなどということに対して私は違和感を覚えます。例えば、初めから相手がHIV(エイズウイルス)陽性であることを知っていて、交際を開始した人たちを私は何人も知っています。全員とは言いませんが多くは仲むつまじい良好な関係を維持しています。
ただ、相手がHIV陽性と分かっているなら交際をしない、という考えを持っている人がいることも理解しているつもりです。個人的にはそれを残念なことだと思いますが、否定はしません。ですが、HPVはどうでしょうか。日本人の8割が生涯一度は感染することがあるとも言われていて、しかも感染しても大部分が自然排出されるHPVのハイリスク型を持っているかどうかで交際相手を決めるということが、いかにばかげているか……。と言えば言い過ぎでしょうか。これが「科学的」なコメントでないことは承知していますが、生涯を共にするパートナーを決めるのには、もっと大切なことがいくらでもあるのではないでしょうか。
感染症のなかでも性感染症は特に差別や偏見を生みやすい領域です。最も顕著なのはHIVですが、他の感染症でも起こりえます。HPVについては、中途半端に知識が広まったことによって差別や偏見が生み出され、Rさんのような女性が蔑視されてしまうのではないか、Nさんのような考えを持つ女性が増えるのではないか、私はそれを懸念しています。
ワクチンの基本は「理解してから接種する」です。HPVについて「理解」するときには「性感染症に伴う差別」まで考慮すべきだ、というのが私の考えです。
中学1年生に一律で、が最善なのか?

さてHPVワクチンについては、HPVの性質、子宮頸がんのみならず尖圭(せんけい)コンジローマという病気について、子頸がんの定期検査の必要性、ワクチンの種類と特徴、筋肉注射の特徴、性感染症に伴う差別や偏見などを女子生徒とその保護者に理解してもらい、接種するかしないかを判断してもらうことになります。実際にこういった説明を女子生徒の保護者(ほとんどが母親)にすると、「直ちに娘にワクチンをうたせます」という保護者は少数派で、「娘が大学に行ってからうたせます」あるいは「娘がもう少し大きくなったら話をしてみます」と答える人が多く、私はこれでいいと思っています。
保護者のみならずワクチンをうつ本人がきちんと理解し「理解してから接種する」あるいは「理解するまで接種しない」という方針を貫くのが、私が考えるHPVワクチンの最善策です。たとえば「大学生になるまでは勉強に専念して、彼氏 ができてもしばらくはプラトニックの関係でいる」という考えは尊重されるべきです。そもそも、無料で接種できる「定期接種」が中学1年生だけとしている制度が不自然なのです。「性交渉を開始するまでワクチンは不要。いつ性交渉をもつかは自分で決める」という考えの方がまともであり、「中学に入学すれば性交渉するかもしれないから事前にワクチン接種をしておけ」という行政の政策の方が“不自然”ではないでしょうか。
ただし、私のこの考えにも「欠点」がないわけではありません。次回はあまり議論されることはないけれども重要なこの「欠点」についてお話ししたいと思います。また行政側の意見については後の回でお話しします。
× × ×
注:医学誌「Sexually Transmitted Diseases」2006年8月号(オンライン版)に「Human Papillomavirus Infection Among Sexually Active Young Women in the United States: Implications for Developing a Vaccination Strategy」と題した論文が掲載されています。
太融寺町谷口医院院長
たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。