
理解してから接種する−−「ワクチン」の本当の意味と効果【21】
「避妊用品を販売することを業とする者は、避妊用品を少年に販売し、また贈与しないよう努めるものとする」
これは、かつて長崎県少年保護育成条例に第9条第2項として記されていた文言の一部です。長崎県の「こども未来課」のウェブサイトをみてみると、条例の改正にともなって、現在はこの表現はなくなっています。以前、長崎県は、18歳未満の少年少女がコンドームを買えないようにドラッグストアやコンビニなどでは身分証の提示を求めるように指導しており、さらに少年補導員が違法な自販機や販売方法がないかを巡回してチェックしていたそうです。
少年への避妊具販売を規制していた長崎県
現在はそこまで実施していないのでしょうが、現在も同県のウェブサイトには「長崎県少年保護育成条例関係」として「長崎県少年保護育成条例内の有害性に関する認定基準」 が掲載されています。その「有害興行、図書類及び広告物の認定基準」の項には、「男女の肉体の全部又は一部を劣情刺激的に」「性行為、変態性欲に基づく行為又はわいせつな行為を露骨に演出し」「性行為にいたるまでの方法、過程、所作又は感情を過度に演出し」などの表現を用いて禁止事項が定められています。要するに、「18歳未満の少年少女に、アダルト系の本、ビデオ、インターネットサイトなどを見せてはいけない」ということを条例で定めているのです。
個人的な感想を述べるなら、私はこの長崎県の取り組みに好感を持っています。地域社会で健全な少年少女を養育しよう、という気持ちが伝わってきます。では、実際に長崎県の少年少女はアダルト情報とまったく無縁の生活を送っているのでしょうか。答えは火を見るより明らかでしょう。
性を「教育」するための要件とは
性に関する情報を少年少女から“隠す”ことはこの時代にはできません。昔から隠すことなどできなかったという人もいるかもしれませんが、今の時代は昔とは比較になりません。たとえば、私が子供の頃、アダルト、わいせつ系の情報と接することができたのは、小学生のころなら草むらに捨てられているアダルト本か、学年が2〜3年上の近所のませた先輩の“講義”くらいしかなく、中学生になってもどこからか回ってくるボロボロになった本くらいでした。1970〜80年代のこのころは、まだ「健全な」時代だったと言えるでしょう。
ヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチンを「理解」するには「性」そのものの理解が不可欠となります。適切な性教育なしにHPVワクチンの理解はできないと考えるべきです。今回は、性教育をどのようにすべきなのかについて考えていきたいと思います。
性教育に限らず、一般に教育を行うときには次の二つの条件がそろうと効果が上がります。ひとつは、生徒側に誤った先入観がなくまだあまり知識がないこと、もうひとつは、教師側に威厳があり尊敬されていることです。
では、性教育についてこれら二つの点を時代の流れを軸に考えてみましょう。
知識と権威 「性」をめぐる環境の激変
まずひとつめの「生徒の知識」は、先に述べたように、私が小学生だった70年代には高度で正確な知識を持ち合わせている少年少女などいませんでした。性感染症のことまで考慮して“講義”をする先輩はいなかったのです。
そして、効果的な教育のもうひとつの条件である「教師の威厳と尊敬」については今の時代よりは遥かにあったと考えていいでしょう。畏怖に満ちた大人社会との数少ない接点が教師だったのです。もしも70年代にHPVのワクチンが登場して、学校で性教育をおこなったとすれば、今の時代よりも効果的にできた可能性が高いと私は思います。
しかし、80年代半ばあたりから時代が動きます。日本全国にコンビニが現れ、ポケベルが登場します。「ブルセラ」「テレクラ」「援助交際」などのキーワードから少女たちの実態を鋭く論じた社会学者の宮台真司氏は、80年代半ばからのコンビニの激増に伴い、レディースコミックが普及し、そこで過激な性描写が身近なものとなり、さらに掲載されたテレクラの広告で援助交際が普及することになったと述べています。
宮台氏の著書「世紀末の作法」(角川文庫)によれば、90年代半ば、東京都内在学の高3女子の7%台に、また渋谷を歩く女子高生に限れば20%台に援助交際の経験があるとするデータがあるそうです。当時の東京都にはまだいわゆる「淫行(いんこう)条例」はありませんでしたが、条例のあった地方都市では逮捕者が続出しました。逮捕された、つまり少女たちを買っていた中には、大企業のえらいさんや、学校の先生もいることが明るみに出ました。宮台氏によれば、「道徳を説くべき学校教員の男女こそがとりわけテレクラにハマりまくるという現実がある」そうです。
このような状況のなか、効果的な教育の二つの条件、「生徒の知識」「教育者の威厳と尊敬」はどうなるでしょう。生徒の知識は、医学的な知識が得られるわけではありませんが、「偉そうなことを言っている大人たちも買春している」という醜い現実を知ることになります。そして、このような事実を知ってしまえば、「教育者の威厳と尊敬」など、もはやみじんもありません。
際限なく知ることができる時代の性教育とは
そして90年代後半、インターネットが普及します。現在の「長崎県少年保護育成条例」には、18歳未満が利用するインターネットにおいて、保護者にアダルト情報をフィルタリングするよう求める努力義務規定があります。その趣旨は理解できますが、中国政府が行うような国を挙げての徹底的な規制でもおこなわない限り、長崎県の少年少女が「大人のページ」を見ることはそう難しくはないでしょう。

私は何度か高校生を対象に性感染症の講義をしたことがあります。その際、主催者と話をして性器の露骨なスライドは外すようにしています。しかしある人から「まあ、検索すれば画像なんていくらでも見られるんですけどね」と言われました。たしかにそうです。たとえば、尖圭(せんけい)コンジローマについて未成年に話すとき、外性器の写真のスライドは外しますが、インターネットを使えばいくらでも写真を見ることができます。そして、これはネットが普及する前の90年代にはできなかったことです。
90年代に少女たちは「大人たちの醜い現実」を知ることになりましたが(注)、この時点では医学的に正確な知識についてはさほど持ち合わせてはおらず、HPVやそれがもたらす尖圭コンジローマや子宮頸(けい)がんについて語れる少女はほとんどいなかったでしょう。しかしインターネットが広く普及すると性に関する「何もかも」が白日の下にさらされることになりました。もちろん誤った情報も無数にありますが、知識を求めれば、写真も含めて医学部で学ぶようなことですら知ることができるようになったのです。
知識がほぼない真っ白な状態であれば大切なことから少しずつ教えていくことができます。しかし情報がいくらでも入ってくる環境下では、偏った知識を持った生徒もいれば、すでに性に嫌悪感を持っている生徒もいるに違いありません。このような状況のなか、教師が主体となった性教育をおこなうのは至難の業です。効果的な教育の二つの条件の「生徒側の少ない知識」「教育者の威厳と尊敬」の双方共に満たされていないからです。
ではどうすればいいのでしょうか。困難だとは思いますが、生徒たちが主役となって討論をおこなうというのはどうでしょう。教師や医療者が見守るなかで、生徒たちが主体性をもって、性のこと、性感染症のこと、さらにレイプや売買春が現実に存在することなどまで話した上で各自がHPVワクチンを接種するかどうかを考えるのです。もちろん結論をすぐに出す必要はありません。ワクチンで大切なのは「理解してから接種する」、裏を返せば「理解するまで接種しない」です。
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注:宮台氏は少女たちが醜い現実を受け入れて「終わらない日常」にうまく対処するようになったのに対し、少年たちはいつまでも「男たるもの強くあるべし」という現実社会を生きるには少しも役立たない「少年ジャンプ」的な発想から逃れられないと述べています。
谷口恭
太融寺町谷口医院院長
たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト