
エイズという病を知っていますか?【1】
タイの首都、バンコクから北へ約150km離れたところにロッブリー県という遺跡とサルで有名な県があります。もっとも、遺跡ならかつて日本人街があったアユタヤの方がはるかに有名ですし、サルにしても日本で売られているガイドブックに詳しく書かれているわけではありません。実際、タイを何度か訪れたことがあるという人でも、ロッブリー県は知らないという人の方が多いでしょう。
2002年10月、ロッブリーに世界最大のエイズホスピスがあると聞いていた私は、当時勤務していた病院の夏休みを利用しこの施設を訪れました。バンコクのフォアランポーン駅から急行電車に乗り、約3時間後にロッブリー駅に到着。そのエイズホスピスは世界最大と言われているわけですから、駅からこの施設までたどり着くのはそれほど難しくはないだろう。そう高をくくっていたのは私だけではなく、同行してもらった友人も同じように考えていました。長年タイに住んでいた友人はタイ語が堪能で、彼に私は通訳をお願いしていたのです。

地元で「誰も知らない」世界最大のエイズホスピス
世界最大のエイズホスピス、正式名「ワ・プラバーナンプー」(以後「パバナプ寺」=注1)を、今タイで知らない人はほとんどいません。何度もマスコミで取り上げられ、16年現在も大勢のエイズ患者を収容しているこのホスピスは、元々は山のふもとにある小さなお寺でした。タイ語の「ワ」は寺のことです。1992年、ひとりの僧侶が行く当てのないエイズ患者をその寺に住まわせたことが、世界最大のエイズホスピスが生まれるきっかけでした。当初は4人の患者を収容し、その後次第に増え、100人以上が寝泊まりするようになり、現在も約150人のほかに行く場のないエイズ患者、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)陽性者が住んでいます。
ロッブリー県には02年当時も今も、駅前でさえタクシーはありません。タイ語で「ソーンテウ」と呼ばれる乗り合いタクシーのようなものはありますが、私や友人が「パバナプ寺まで」と言っても、ドライバーには「そんな寺知らないよ」と言われ、取りつく島もありません。なんで世界最大のホスピスを知らないんだ? こうなると交通手段はバイクタクシー(バイクの後部座席にまたがるタクシー。いわゆる2人乗りで、バンコクなどで見られるしっかりした後部座席を持つトゥクトゥクとは別物です)ということになりますが、重いスーツケースを持って乗ることは不可能です。

その時、ほほ笑みが消えた
時刻はすでに夕暮れに迫ろうとしていました。今日のところは駅前のホテルに投宿し、翌朝身軽な状態になって、バイクタクシーで移動するのがよさそうです。その日の夜、駅前付近の食堂で夕食を取っていると、食堂を仕切っている中年女性が私たちに話しかけてきました。ロッブリー県に外国人が来ることはそれほど多くなく、私の知人が堪能なタイ語で料理を注文したことから我々に興味を持ったのでしょう。気さくなおばさんという感じで、始終笑顔で話してくれます。ここは「ほほ笑みの国」なのです。この女性ならきっと詳しく知っているに違いないと考えた私たちは、パバナプ寺について尋ねてみました。
その瞬間、場の空気が止まりました。女性から「ほほ笑み」が消え、こう言ったのです。
「エイズ寺のことね。まったく何であんなものをこのロッブリーにつくってくれたのかしら。エイズ患者が増えて困るのは私たち住民なのよ。この前もこのあたりでは見かけないやせ細った男がやって来て、あんたエイズじゃないだろうね、と聞くと何も言わないんだよ。これはエイズに違いないと思って、追い出してやったわよ。もちろんその男が触れた食器は捨てちまったよ。きっとあの男、どこか遠くからエイズ寺のうわさを聞いてやって来たんだろうね」
こんなところで正論をぶつけても不毛ないさかいとなるだけです。我々は、明日訪問する予定だということを言わずにその食堂を出ました。そして翌日以降、差別の実情がこの程度ではないということを、イヤというほど思い知らされることになります。

絶望が支配する病室
翌朝、駅前に行きバイクタクシーに「パバナプ寺まで行ってほしい」と言うと、なぜか「そんな寺知らないよ」と言われ、なかには露骨にイヤな顔をするドライバーもいました。ここで、前日に乗り合いタクシーに「知らない」と言われた理由も分かりました。ロッブリーの住民はエイズホスピスを快く思っていないのです。なんで平和なこの町にあんなものができたんだ、と言いたげなのです。しかし私は何としても行かなくてはなりません。ドライバーに通常の3倍料金を払うと言い何とか交渉が成立しました。
パバナプ寺に到着した我々が見た光景は想像を絶するものでした。ベルギーからボランティアに来ていた医師が案内してくれた病室、というよりは、無味乾燥とした建物に無機質なベッドが並べられた生気の感じられない空間、と形容したくなる部屋には、「絶望」という言葉以外には何も想起できない光景が広がっていました。
そのベルギー人医師によれば、この部屋は重症病棟として使われていて、そこで寝ている40人の半数以上が結核に侵されており、一日中血たんを吐いている者も少なくなく、毎日1、2人は死んでいくとのこと。血たんだけでなく、嘔吐(おうと)がやまない人もいれば、何やらうめいている人もいます。例外なく全員が極度にやせ細り、ほとんどの人の皮膚にできものや原因不明の斑点があります。タイ人の看護師や、世界中から集まってきているボランティアもいましたが、どこにも笑顔はなく、息が詰まりそうでした。
当時、タイにはまだHIVの薬がありませんでした。それに、そもそもこの施設は病院ではなく、ホスピスというのも便宜上そう言われているだけであり、本来はただの寺なのです。国内外から集めた寄付金で買われた痛み止めやいくらかの抗菌薬、塗り薬などはありますが、とても治療に十分なものではありません。
一般にホスピスというのは死を受容した人が入る施設です。そして通常のホスピスでは、笑顔もあれば笑い声も聞こえてくるのが普通です。エリザベス・キューブラー・ロスの名著「死ぬ瞬間」には、いずれ人は死を受容するようになると書かれていたはずですが、パバナプ寺の重症病棟には明るさが一切なく、どんよりした空気が滞っているだけでした。この部屋におけるエイズは「死に至る絶望」以外の何物でもありません。

治る病となったエイズ しかし薬がない時代、国では…
現在、HIV感染症(注2)は「死に至る病」ではありません。毎日飲まなければいけませんが、適切な薬を用いることによってエイズを発症することはほとんどなくなりました。以前は、抗HIV薬は1日に複数回、複数種を飲まなければなりませんでしたが、現在は1日1回1錠でOKというものも登場しています。よく言われるようにHIVは、生活習慣病と同じように「慢性疾患」となったのです。

ですが、すぐれた抗HIV薬が登場し、副作用が軽減し、飲みやすくなったのは比較的最近のことで、また国や地域によっても「差」があります。タイで抗HIV薬が一般の患者さんに無料で用いられるようになったのは04年ごろからで、私が初めてパバナプ寺を訪れた02年にはまったく使えなかったのです。
しかし、私が強い衝撃を受けたのは「死に至る病」に対する医学の無力さよりもむしろ、患者さんから聞いた別の意味の“絶望”です。次回はそれについてお話しするとともに、私がその後、生涯にわたりHIVという病に携わっていくことを決心するきっかけになった、ある患者さんとの出会いについて紹介したいと思います。
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注1:「ワ・プラバーナンプー」を、タイ人に普通のスピードで発音してもらうと「ワ・パバナンプ」となります。ゆっくりと発音してもらうと「ワッ・プラァバー(ト)ナー(ム)プー」となります。日本人は「パバナプ寺」「ナンプー寺」などと呼びます。ここでは以後、「パバナプ寺」とします。
注2:「HIV感染症」と「エイズ」の定義は異なります。前者は文字通り、HIVに感染した状態。エイズ(後天性免疫不全症候群)とは、「HIVに感染し、特定23疾患のいずれかを発症している症例」を指します。「特定23疾患」とは、免疫能が低下したときに発症する疾患で、詳しくは次回以降のこの連載で解説します。HIV感染症の患者はHIV陽性者、エイズを発症した人はエイズ患者と記します。
太融寺町谷口医院院長
たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。