
エイズという病を知っていますか?【2】
前回紹介したように世界最大のエイズホスピス、タイのパバナプ寺では2002年当時、抗HIV薬がなく、HIVに感染することは「死」を意味していました。しかしそれだけではありません。HIV感染者にとって、最もつらいことは「近づく死」でも「HIV感染からくる発熱や痛み」でもなく、社会からの「差別」だったのです。

前回はパバナプ寺の重症病棟を紹介しました。重症病棟では、毎日のように誰かが死亡し、食事をまともに食べられる人は皆無で、全員が高熱や激しいせき、下痢などに苦しんでいます。自力歩行できる人はいません。一方、比較的元気でなんとか食事を取れる人たちもいて、そのような患者さんは軽症病棟で暮らしています。また、まったく無症状の元気な人たちも少なからずいます。彼、彼女らは、寺の敷地内に建てられたバンガローのような部屋にひとりで住んでいます。

元気に働けても行く当てがない
なぜ、元気な人たちもパバナプ寺に住まなければならないのか。それはHIV感染が発覚すると、病院には出入り禁止と言われ、地域社会から差別を受け、そして家族からも見放され、行く当てを失うからです。
初めてパバナプ寺を訪ねた私たちは、20代と思わしき男性に話しかけました。意外にも笑顔で「サワディー・クラップ(こんにちは)」と返してくれます。聞けば、元気で体はどこも悪くないと言います。では、なぜここにいるのかと尋ねると、ここにしか居場所がないという答えが返ってきました。タイ東北部のある県出身のこの男性は、友達がエイズを発症したことから検査を受け、自分自身も陽性だと判明したそうです。しかし、どうやって感染したのかは分からないと言います。ドラッグ(違法薬物を注射する際の針の使いまわし)、タトゥー(入れ墨)、不特定多数の女性との性交渉(おそらく買春)のすべてでの感染の可能性があり(注1)、これらの“遊び”を一緒にしていた友人がHIVに感染していたために自分も検査を受けた、と説明してくれました。

しかし彼は元気です。おそらく働こうと思えば仕事もできるはずです。けれども、当時のタイでは、地域に感染が知られると「出ていくこと」以外に選択肢がありませんでした。検査をした病院では「何もできない。来てもらっては困る」と言われ、住民から石を投げられ、いつも出入りしていた食堂やよろず屋からも二度と来るなと言われ、バスに乗ろうとすると引きずり下ろされ、親や兄弟からも疎まれ……。ようやくたどり着いたのがこのパバナプ寺だったのです。

メーオとの出会い
講堂のような建物にいた20代後半と思われるメーオ(仮名)という名の女性にもインタビューしてみました。メーオは夫からHIVをうつされ(注2)、夫は他界。病気を抱えた母親と2人の子供と一緒に住んでいたけれど、エイズ患者が家にいると差別の対象となるという理由で家を出たと言います。夫がエイズと分かった時点で、働いていたクリーニング屋を解雇されたそうです。
そんな行き場のないメーオを受け入れてくれたのがパバナプ寺でした。パバナプ寺では、バンガロー1室をあてがってもらい、三食食べさせてくれます。すべて無料ですから生活はできます。しかしその「生活」というのは人間らしいものではありません。当時のタイには抗HIV薬がなかったのですから、パバナプ寺に入所するということは「死へのモラトリアム」に他ならず、出所はあり得ないのです。2人の子供とも金輪際会うことはできません。体が不自由な母親と小学生の2人の子供が、自力でこの寺までたどり着くことは無理だろうと言います。たとえ身体的に訪問が可能だったとしても、当時のタイでは家族でもエイズ患者のための施設に住んでいる者に会いに行く、などということはまずなかったのです。2年後の04年、私はパバナプ寺で約2カ月間、ほぼ毎日ボランティアとして診療活動をしましたが、その間、入所者に会いにきた親族や友人はゼロでした。
食べ物と住み家には困らないとはいえ、同じ境遇の人たちが敷地内で荼毘(だび)に付されていく光景を毎日目にするのです。このような状況では、人の心はすさんでいきます。メーオも例外ではなく、寺にやってきて数週間もたたないうちに食事がほとんど取れなくなり、やせ細り、来る日も来る日も死ぬことばかりを考えていたそうです。
メーオの力こぶが教えてくれたこと
しかし、あるとき歩行困難でよろけそうになった入所者に手を貸したことで物の見方が変わったと言います。あたしはまだ歩ける、そしてこの人が歩くための手伝いができる。あたしにもまだできることがあるんだ……。そう思ったメーオはその日を境に他人の手伝いをするようになりました。重症の患者さんの体を拭いてあげたり、食事の介助をしてあげたり。「重症病棟に入ると、結核やカリニ肺炎に感染するリスクが……」。一瞬そう言いかけた私はすぐに言葉をひっこめました。メーオが回復する望みは当時のタイではゼロであることを思い出したからです。感染症のリスクを考え重症患者に近づかないという生き方ではなく、残された生命を他人の貢献に使いたいというメーオの強い意思がそこにはありました。
私がメーオにインタビューしたのは、講堂のような建物の中でした。周囲には米の袋が積み上げられており、そこで彼女は米を袋に詰め替える作業をしていました。一部の慈善団体がその米を買ってくれるそうです。そんな団体は少ないそうですが。「最近は、1日3時間はこの作業ができるようになったの。ほら、見て! こんなに力がついたのよ!」。そう言って彼女は右腕の力こぶを見せてくれました。私は今も目を閉じるとそのときの光景がよみがえります。

約2年後の14年7月、再び私がパバナプ寺を訪ねたとき、私が真っ先にしたのはメーオを探すことでした。しかし、彼女の姿はすでにありませんでした。寺の従業員によれば、数カ月前に静かに息を引き取り、結局子供と再会することはなかったそうです。私はその日、ひとりで黙とうをし、誓いました。「僕はあなたのあのときの笑顔と力こぶを忘れません。そして医師であり続ける限り、治療のみならずあなたが苦しんだ差別と闘い続けます」
医学的にはずいぶん状況が変わったが…
その後、私はほぼ毎年パバナプ寺に来ています。抗HIV薬が誰にでも使えるようになり、「医学的には」随分と状況が変わりました。パバナプ寺に入所して適切な薬を使えば元気を取り戻し社会復帰できるようにまでなっています。一方、差別は完全になくなったわけではなく、社会復帰したといってもHIV感染を隠して地域社会に溶け込もうとしている人が大半です。さすがに地域住民から石を投げられたり、病院から「二度と来るな」と言われたりするような事態はなくなりましたが、依然いわれのない差別や偏見に苦しんでいる人は少なくありません。
さて、翻って日本ではどうでしょうか。日本でHIV陽性者に対する「差別」はあるでしょうか。私が日々感じている答えは「タイよりもはるかに深刻な差別があるのが日本」です。日本では職場での差別のみならず、あってはならないはずの医療機関での差別も歴然とあります。これらについて本シリーズで追って紹介していきます。
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注1:タイにおけるHIVの感染経路について調査、分析したデータはあるのですが、当時(00年代前半)のタイの医療従事者はこぞって「そんなものは当てにならない」と言っていました。理由は、この男性のように、買春、薬物の静脈注射、タトゥーのいずれも経験している者が非常に多く、判別は困難だからです。
注2:2000年代半ばから後半のタイのデータでは、感染経路の第1位が「主婦が自分の夫からうつされる」というケースでした。例えば、06年9月9日付の新聞「Bangkok Post」によれば、05年にHIV感染が発覚した1万7000人のうち、主婦が30%で1位、2位が男性同性愛者で20%です。注1の事情とは異なり、これは信頼性が高いと思います。タイはセックス・ツーリズムの代名詞のように言われることがありますが、特に地方の女性の多くは貞操観念が強く、違法薬物どころか飲酒も喫煙もたしなまず、またタトゥーにも縁がありません。つまり、主婦は自分の夫から感染しているケースが大半なのです。ちなみに、現在のタイでは感染経路の第1位は男性同性愛者の性交渉です。
太融寺町谷口医院院長
たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。