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「HIVは感染しにくい」って本当?

谷口恭・谷口医院院長

エイズという病を知っていますか?【3】

 タイでHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染した患者さんたちが、いかに過酷な差別を受けているかを目の当たりにし、欧米から来たボランティアの医師たちが患者さんのありとあらゆる悩みを聞き治療にあたっているのを見て私には三つの目標ができました。

培養されたリンパ球中で増殖させたヒト免疫不全ウイルス(HIV)の走査型電子顕微鏡写真=米疾病対策センター(CDC)ウェブサイトより
培養されたリンパ球中で増殖させたヒト免疫不全ウイルス(HIV)の走査型電子顕微鏡写真=米疾病対策センター(CDC)ウェブサイトより

 一つ目は、自分はエイズ専門医になるのではなく、どんなことでも相談できるプライマリ・ケア医(総合診療科医)を目指すということ。パバナプ寺にはエイズ専門医が月に1度やってきて抗HIV薬を決める作業をしていましたが、毎日患者さんから訴えを聞いて治療を行うのは欧米から来ていたプライマリ・ケア医だったのです。ボランティアを終え帰国した後、私は母校である大阪市立大学医学部の総合診療部の門をたたきました。

 二つ目は、前回紹介したメーオ(仮名)の例にあるように、住民の無知からきているいわれなき差別への挑戦です。HIVは決して差別されるような病ではないことを、生涯をかけて訴えていくことを決意したのです。そして三つ目の目標が、感染者を生み出さない努力をすることです。今回はこのことについて述べます。

HIVの感染力は本当に弱いのか?

 HIVは感染力が弱くて少しくらいの性的接触では感染しない、と言われることがあります。果たしてこれは本当でしょうか。

 たしかに「感染力が弱い」とするデータはあります。医療者の針刺し事故(感染患者に使った注射針などを、医療者が誤って自分の指などに刺してしまう事故)を対象とした有名な研究があり、それによれば針刺しをしたときにB型肝炎ウイルス(HBV)なら30%、C型肝炎ウイルスなら3%、HIVなら0.3%が感染する、というのです。この数字はあまりにも有名で、医療者でなくとも知っている人がいるほどです。しかし私はこのデータを過信すべきでないと思っています。元々の感染患者さんが持っていたウイルス量がどの程度かにより、刺してしまった後の感染率はまったく異なりますからいつも0.3%とは言えませんし、実際に患者さんをみているとささいな接触で感染している人もいるからです。

 ここで実際に私がみてきた症例を紹介しましょう(本人が特定されないように若干のアレンジを加えています)。

【症例1】30代男性(T氏)

 T氏が過去に交際し、エイズで他界した女性は、触れられたくない過去を持っていました。不特定多数の男性に体を売っていた経験です。実はT氏と彼女の関係も最初はお金を介した関係でした。しかし、T氏は何度か彼女と会ううちに本気で恋に落ちました。底なしの明るさをもつ彼女と一緒にいるとイヤなことがすべて忘れられた……、とT氏は回想します。失業中のT氏と彼女は安アパートで一緒に暮らすようになり、何カ月もの間ほとんど外出もせず、酒とセックスの堕落した日々を過ごしました。そのうち、彼女の体調が悪化し、どんどんやせほそり、全身の皮膚にかゆみを伴うできものが現れてきました。まったく食事がとれなくなって、ようやく病院に行くと診断はHIV感染症。このときT氏は彼女とともに死ぬことを覚悟したそうです。しかしT氏の検査結果はHIV陰性。これだけ濃密な接触をしていても感染していなかったのです。この話だけを聞くと、HIVは簡単に感染しない、と思いたくなります。

 次は逆の例を紹介します。

【症例2】30代男性(H氏)

 高熱と咽頭(いんとう)痛で近くのクリニックを受診し、投薬を受けたものの一向に治らないことから太融寺町谷口医院を受診。受診時には皮疹も出現していました。問診から2週間前まで東南アジアのある国に出張に行っていたことが分かりました。こうなると日本にはあまりない感染症を疑うことになります。デング熱、マラリア、腸チフス、あるいは麻疹や風疹も考えなければなりません。HIVも感染初期には皮疹が出現することがあります。現地で危険な性行為があったか、という私の質問に対するH氏の答えは「ないことはないが安全な行為」と言います。医師はときに患者さんの言葉をうのみにしません。許可を得た上でHIV抗体検査を実施すると弱陽性。後日精密検査で感染が確定しました。診断は「急性HIV感染症」です。改めて問診をおこなうと、現地のセックスワーカーとお金を介した関係があり、コンドームなしのいわゆるオーラルセックスがあったと言います。一般にオーラルセックスでのHIV感染の可能性は極めて低い、と言われています。それはそうであったとしても、当然0%ではないのです。

【症例3】20代女性(Mさん)

 とてもしっかり者のMさんは留学経験もあり語学も堪能。現在小さな会社に勤務し編集の仕事をしています。どこに行っても人気者になりそうなルックスと性格で、当然周りの男性は放っておきません。しかしMさんは性には慎重で簡単に彼氏を見つけることはしません。しかも交際開始時には2人でHIVの検査を受けるそうです。そんなMさんがHIVに感染していることが分かったのは毎年受けている人間ドックでした。検査のオプションにHIVを入れていたために感染が発覚したのです。まったく身に覚えのないMさんは共通の知人を通して私に相談してきました。

 Mさんは違法薬物も海外での輸血もタトゥー(入れ墨)も経験がありません。しかしHIVが空気感染するはずがありません。私はMさんの右の耳にカラフルで個性的なピアスがあることに気づきました。「もしかしてボディーピアスの経験はないですか?」。そのときMさんの表情が変わりました。2年前に東南アジアのあるリゾート地でボディーピアスをしたというのです。100%確定できるわけではありませんがMさんのHIV感染のルートはこれ以外に考えられません。前回(忘れられない患者さんの「力こぶ」)の注釈でも述べたように、正式なデータはないもののタトゥーからの感染が少なくないことはタイの多くの医療者が述べています。Mさんが渡航した国も同じ状況だったのでしょう。

「HIV感染を隠して性交渉」で逮捕

 もう一つだけ例を挙げましょう。これは私が経験した症例ではなく世界中で報道された有名人の事件です。2009年4月、ドイツの人気女性ポップユニット「ノー・エンジェルス」(No Angels)のメンバーの一人、ナジャ・ベナイサ(Nadja Benaissa)が、フランクフルトの自宅アパートで逮捕されました。理由は「HIV感染を隠して恋人と性交渉を持ち感染させた」ということです。このことの是非は置いておくとして、ここで私が主張したいのは、彼女は担当医から「感染させる可能性は事実上ゼロ(practically zero)」と言われていたことです(注)。おそらく投薬により状態が安定しており、血中ウイルス濃度がほぼ検出されないレベルが保たれていたのでしょう。

 私は恋愛を楽しもうとしている人たちを怖がらせたくありません。もしもHIVに対する恐怖が強くなりすぎて恋愛に消極的になってしまう人が出てくるとすれば、それは本末転倒です。しかし、実際にはささいなことで感染する人がいることも事実であることを私は多くの人に知ってもらいたいと考えています。

 次回は私が以前から提唱している「いきなりHIV」について述べていきます。

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注:このニュースは世界中で報道されました。私の知る限り、BBCのこちらのページが最も分かりやすいと思います。ビデオも見ることができます。

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谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。