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謎のHIV感染「キンバリー事件」を推理する

谷口恭・太融寺町谷口医院院長
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エイズという病を知っていますか?【8】

 前回お話ししたように、歯科医院での院内感染予防対策についてきちんと検証しなければならないと私は考えています。同じく前回紹介した米国オクラホマの歯科医院でのHIV(ヒト免疫不全ウイルス)院内感染は、当初把握されていた以上に被害者がいる可能性があり、行政はこの歯科医院で治療を受けた約7000人の患者にHIV検査を呼びかけることになりました。

 もう一つ、最近はほとんど語られることがなくなりましたが、歯科医院でのHIV院内感染を考える時に忘れてはならない事件があります。

歯科医院でHIVに感染した女性

 1991年9月、キンバリー・バーガリスという20代前半の米国人女性が車いすで米国連邦議会の公聴会に出席し、証言しました。この女性は、敬虔(けいけん)なクリスチャンであり、性交渉の経験がなく、違法薬物の針の使い回しなどHIVに感染する要因が全くないにもかかわらず、HIVに感染しエイズを発症しました。調査の結果、キンバリーさんが通院していた歯科医院で感染したことが明らかとなったのです。当時は、車いすに座り必死で証言するキンバリーさんの様子がテレビで中継され、全米で(あるいは世界的にも)かなりセンセーショナルに報じられました。

「キンバリー事件」は大きな話題となり、米国の雑誌「ピープル」は1990年10月22日号で「歯科医師と患者 エイズのミステリー」と題した特集記事を掲載。表紙にもキンバリー・バーガリスさんの写真が載せられた=写真はPeople公式サイトのアーカイブページ(http://people.com/archive/cover-story-a-life-stolen-early-vol-34-no-16/)より
「キンバリー事件」は大きな話題となり、米国の雑誌「ピープル」は1990年10月22日号で「歯科医師と患者 エイズのミステリー」と題した特集記事を掲載。表紙にもキンバリー・バーガリスさんの写真が載せられた=写真はPeople公式サイトのアーカイブページ(http://people.com/archive/cover-story-a-life-stolen-early-vol-34-no-16/)より

 当時の報道などから事件の経緯を追ってみます。87年12月、当時19歳のキンバリーさんは近所の歯科医院で治療を受け、HIVに感染しました。この時、治療を行った歯科医師デイビット・アーサー氏(以下、アーサー氏)はエイズを発症し、90年9月に死亡しています。91年当時、HIVには有効な治療薬が存在しませんでした。エイズ発症後、車いすの生活を余儀なくされたキンバリーさんは、HIV感染で神経系にも障害を来していたのでしょう。91年12月8日、23歳という若さで他界しました。

 HIVの感染力はそれほど強くないことは当時から周知されており、HIV陽性の歯科医師から患者に感染するなどとは考えられないとみなされていました。そのため、アーサー氏が故意にキンバリーさんに感染させたのではないか、と見る向きもありました。

歯科医師は故意に患者にエイズを感染させたのか?

 しかし、この考えには不自然さが残ります。その後の調査で、この歯科医院でHIVに感染したのはキンバリーさんだけでないことが分かりました。他に5人の患者が感染していたことが遺伝子解析から判明したのです。そもそも、歯科医師が自分の患者に故意に自分のウイルスを感染させるなどということを考えるでしょうか。よしんば考えたとしても、一体どうやって実行に移すのでしょう。まさか、自分の血液や精液を患者の歯髄に注入したとでもいうのでしょうか。そんなことを合計6人もの患者に行うことができるでしょうか。

 私はこの「キンバリー事件」の真相についてある「仮説」を持っています。証明することはできませんが、その仮説を紹介し、同じことを防ぐために何をすべきかを考えたいと思います。

キンバリー事件の真相を推理する

 歯科医師のアーサー氏が男性同性愛者だったことは分かっています。彼は性行為を介してHIVに感染した可能性が高いと言えます。そして、ここからは当時のうわさなのですが、アーサー氏には特定の性的なパートナーが複数いて、さらにパートナー以外の多くの男性とも関係があったのではないかと指摘されていました。だとすると、アーサー氏の性交渉の相手の1人、あるいは複数人が、歯科医院の患者でもあった可能性もあると考えられます。

 この点は当時も警察が捜査を行っていて、アーサー氏の相手が彼の治療を受けていた、という証拠は出なかったと結論付けられています。

 しかし、奔放な性生活を送っていたアーサー氏と関係を持った男性が総勢何人だったのかを正確に把握することは困難なはずです。恋人のような関係なら分かるでしょうが、一度だけの関係で、名前も聞かず、時間がたてば顔も忘れてしまうような相手がいたら、捜査にも限界があったのではないでしょうか。一度だけ関係を持った人物が、後にアーサー氏の歯科医院で偶然患者として治療を受けたが、双方が互いに顔も覚えていなかった、という可能性はないでしょうか。

 また、アーサー氏が歯科医院の休診日に、親しいパートナーの治療をしていたかもしれません。お金を取らず、カルテも書かなかったら、捜査線上にその人物が浮かぶ可能性は低いでしょう。

 本来、アーサー氏と性交渉をした人物が彼の治療を受けていたとしても、歯科医院であれば当然器具の滅菌を行っているはずです。HIVはそれほど感染力が強いわけではなく、通常の滅菌が行われていれば、患者→医療器具→患者、というルートでの感染は起こりえません。しかし、この常識、あるいは前提は既に覆されています。2013年のオクラホマの事件があるからです。21世紀になっても、このような歯科医院があるのですから、90年当時に滅菌をなおざりにしていた歯科医院があってもおかしくありません。実際、当時の米国では、感染ルートが全く不明のHIV感染が少なくなく、このうちのいくらかは歯科医院での感染の可能性が否定できないのではないかと思います。

キンバリー・バーガリスさんが米下院の小委員会でHIVの院内感染対策を訴えたことを伝える1991年9月29日付の毎日新聞朝刊(東京本社版)
キンバリー・バーガリスさんが米下院の小委員会でHIVの院内感染対策を訴えたことを伝える1991年9月29日付の毎日新聞朝刊(東京本社版)

不十分な滅菌が重大な院内感染を生む

 キンバリー事件の真相について、私の「仮説」をまとめると以下のようになります。(1)アーサー氏と関係を持ったHIV陽性の男性患者がアーサー氏の歯科医院で治療を受けた(2)患者とアーサー氏の双方が過去に性的接触を持ったことに気付いていない、などの理由で、患者は捜査線上に浮上しなかった(3)歯科医院での滅菌が不十分であった。

 キンバリー事件から我々が学ぶべきこと。それは、不十分な滅菌がHIVをはじめとする院内感染をもたらす可能性があると認識することだ、と私は考えています。さて、日本の歯科医院(もちろん歯科医院以外の医療機関も)はどうでしょうか。我々は歯科医院を受診するとき、どうすればいいのでしょうか。「答え」は前回のコラムの最後に記した通りです。

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谷口恭

太融寺町谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト