実践!感染症講義 -命を救う5分の知識-

HIVを「死から解き放った」薬

谷口恭・太融寺町谷口医院院長
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エイズという病を知っていますか?【9】

 HIVに感染しても1日1錠決まった時間に薬を飲んでいればエイズを発症しない、と言うと多くの人は驚きます。

 抗HIV薬が初めて市場に登場したのは1987年。歴史的な薬ですが、発売後しばらくして飲み続けているうちに効かなくなってくることや、いくつかの副作用ばかりがクローズアップされるようになり、一時は期待の大きさに比例する深い落胆が患者はもちろん、医療従事者の間に広がったことがありました。その印象が強いためか、HIVをいまだに「死に至る病」だと思っている人もいます。しかし、現在は適切なタイミングで適切な治療薬の服用を開始すれば、多くの場合、生涯にわたりエイズを発症しません。ただし、ここまでの道のりがかなり険しかったのも事実です。今回は、およそ30年間にわたる抗HIV薬の歴史を振り返ってみたいと思います。

日本人が世界で初めて成功した抗HIV薬開発

エイズ治療薬について説明する満屋裕明さん=東京都新宿区の国立国際医療研究センターで2015年5月27日、藤野基文撮影
エイズ治療薬について説明する満屋裕明さん=東京都新宿区の国立国際医療研究センターで2015年5月27日、藤野基文撮影

 世界で初めて抗HIV薬の開発に成功したのは、元熊本大学医学部教授(現在国立国際医療研究センター臨床研究センター長)の満屋裕明氏です。1985年のことです。この満屋先生の功績は、なぜかメディアは大きく取り上げませんが、私個人としてはノーベル賞に相当する偉大なものだと思っています。日本では、HIV/エイズに関して以前、この連載でも取り上げた医療機関での差別があり、就職差別があり(これについては追って紹介します)、社会の関心もタイやアメリカに比べるとそれほど大きくありません。しかし、HIVに効果の高い薬を世界で初めて開発したのは満屋先生であることは、日本の人々にもっと注目されるべきです。

 満屋先生が開発した抗HIV薬はAZT(アジドチミジン、別名をZDV、ジドブジンとも呼びます)というもので、カテゴリーとしては「逆転写酵素阻害薬」になります。非常に効果の高い薬であり、現在でも使われています。しかし、冒頭で述べたようにこの薬1種だけでは、飲み続けているうちに効かなくなってきます(このあたりの背景を詳しく知るには、マシュー・マコノヒーがエイズを発症したカウボーイを演じ、アカデミー主演男優賞を受賞した2013年の米映画「ダラス・バイヤーズクラブ」がおすすめです=注1)。

「エイズ=死の病」を覆したカクテル療法

 その後、プロテアーゼ阻害薬と呼ばれるタイプの薬や、AZTとは別のタイプの逆転写酵素阻害薬が次々と開発されました。しかし、単剤ではどれを使ってもそのうち耐性が出てきます。そこで、考えられたのが複数の抗HIV薬を組み合わせるという方法で、これを「カクテル療法」または「HAART(Highly Active Anti-Retroviral Therapy)」と呼びます(注2)。作用機序の異なる複数の薬を飲むという方法は、高血圧や糖尿病でも一般的におこなわれていますから、別段画期的な方法と思えないという人もいるでしょうが、HIVに関しては、この方法が劇的に奏功しました。つまり、カクテル療法を実施すればエイズを発症しなくなるのです。

 カクテル療法が世界的に普及し始めたのは90年代後半で、この頃から「HIVは死に至る病ではなくなった」と言われるようになりました(ただし、当連載のエイズシリーズ第1回でお伝えしたように、タイで抗HIV薬が使われ始めたのは04年ごろですし、現在も一部のアフリカ諸国ではすべての患者に薬が行きわたっていません)。

複雑な内服方法が治療開始のハードルだった

2001年、取材に応じて日常的に服薬している抗HIV薬を示すHIV陽性者の男性。当時は非常に多くの薬を複雑なルールに従って飲む必要があった
2001年、取材に応じて日常的に服薬している抗HIV薬を示すHIV陽性者の男性。当時は非常に多くの薬を複雑なルールに従って飲む必要があった

 しかし、カクテル療法には、内服方法が非常にややこしいという厄介な点があります。Aという薬は12時間ごとに飲んで、Bは8時間後とか、こちらの薬は食間でこれは食後とか、カクテル療法の黎明(れいめい)期には、1日に6~8回も飲まなければならない組み合わせもありました。しかも抗HIV薬はたいてい錠剤が大きく、また(なぜか)カラフルな色が付けられていて、他人の前では飲みづらいものでした。飲み忘れが増えると薬が効かなくなるという重大な問題もあります。優れた抗HIV薬が次々と開発されたといっても、他の病気の薬に比べればさほど種類が豊富とはいえません。毎日毎日、1日何度も薬を飲むことに集中し、それを生涯続けなければならない、というのは相当大変です。

 数年前まで、ほとんどのHIV陽性の患者さんは「可能な限り薬を始めるのを遅らせたい」と言っていました。この理由のひとつが、カクテル療法の複雑な飲み方を毎日続ける自信がない、というものです。他にも、副作用のリスク、薬を他人に見つかるリスク、他の薬との飲み合わせ(以前述べたように抗HIV薬は他の薬との相互作用が複雑です)、費用(ただし日本では自立支援医療<更生医療>の適応になりますから自己負担額はさほど多くありません)などの観点から、多くの患者さんが治療開始をためらっていました。治療開始のハードルが高かったのです。

 しかしこのハードルはここ1年くらいで随分と低下してきました。その理由は主に三つあります。

感染、即治療開始を決めたWHO

 15年9月30日、世界保健機関(WHO)は、HIV感染の治療と予防に関する新しいガイドラインを発表しました。そこには、「小児から成人まですべての人のHIVの治療を免疫状態にかかわらず可及的速やかに開始する」と記載されています。これはHIV治療の歴史的転換といっていいと思います。前述のように、従来はカクテル療法の煩雑さや副作用のリスクを考えて治療開始を遅らせたいと考える人がほとんどで、医師の判断基準もその意向に沿ったものでした。2000年代前半は「CD4陽性リンパ球が200/uLを切ると治療開始」というのが目安でした。それが350/uL以下となり、500/uL以下となり、さらに500/uL以上でも症状などを考慮して始めてもいい、と治療開始の敷居が下がってきたのです。そしてWHOのこの発表で、ついに「HIVに感染すれば速やかに治療開始すべきだ」となったのです(注3)。

相互作用少ない新薬と、画期的な「合剤」の発明

 二つめの理由は、新たな作用メカニズムの抗HIV薬が登場したことです。先に述べた「プロテアーゼ阻害薬」が、他の薬との飲み合わせが非常に複雑なのですが、2000年代後半に登場した「インテグラーゼ阻害薬」と呼ばれる薬は、それほど飲み合わせが難しくなく、インテグラーゼ阻害薬と複数種の逆転写酵素阻害薬を選択することで、相互作用のコントロールが比較的簡単になりました。他の病気で用いる薬が幅広く使えるようになったのです。

 三つめの理由、そしてこれが最大の理由で、カクテル療法が劇的に進歩したことです。複数の薬を合わせて飲む、という原理が変わったわけではありません。薬の研究が進み、複数の薬を一つの錠剤にする方法が開発されたのです。これを「合剤」と呼びます。次々と開発が進み、現在ではついに1日1錠のみ、しかも食事に関係なし(いつ飲んでもよい)という薬まで登場しました(注4)。

 薬の飲み忘れが重なると、効かなくなることは今も変わりません。しかしAZTが開発されたばかりの85年を舞台にするダラス・バイヤーズクラブの時代に比べると、HIV治療は著しい進歩を遂げています。

 さらに、HIVが体内に侵入してからでも感染を防ぐことのできる治療、そして、パートナーがHIV陽性の場合などに、事前に薬を飲んで感染を防ぐ方法も、世界的にはかなり普及しています。次回はその話題を紹介したいと思います。

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注1:「ダラス・バイヤーズクラブ」のストーリーは事実に基づいたものとされていますが、すべてのシーンがそうではないと思われます。過去にコラムを書いたことがありますので、興味のある方は参照ください。NPO法人GINAウェブサイト「GINAと共に」第94回「『ダラス・バイヤーズクラブ』と抗HIV薬の歴史」(2014年4月号)

注2:現在は「ART」と呼ぶのが一般的です。

注3:日本ではHIV陽性者全員がただちに自立支援医療の適応となるわけではありません。

注4:すべての患者さんが1日1錠の薬に変更すべきだというわけではありません。

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谷口恭

太融寺町谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。