実践!感染症講義 -命を救う5分の知識-

HIV感染、事前も事後も薬で防げるが…

谷口恭・太融寺町谷口医院院長
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エイズという病を知っていますか?【10】

 今回10回目となるHIV(ヒト免疫不全ウイルス)、エイズをテーマにしたこのシリーズのタイトルが、「エイズという病を知っていますか」とされていることからも分かるように、日本ではこの疾患について、我々医療従事者からすれば知っておいてほしい知識が社会に浸透していません。前回述べた、「HIVに感染しても1日1回1錠の薬を飲み続けていればエイズを発症しない」ということを知っている人はどれだけいるでしょう。

 今回紹介したいのは、優れた抗HIV薬が開発されたことにより、可能になった次の二つの方法です。まず(1)HIVに感染したかもしれない出来事があった後から、薬の内服を開始して感染を防ぐ方法。そして(2)パートナーがHIV陽性などの場合に、毎日薬を飲むことによって感染を防ぐ方法、です。

アクシデントの「後」に感染を防ぐ法-PEP

 (1)から説明していきましょう。「HIVに感染したかもしれない出来事」というのは、例えば医療従事者の針刺し事故やレイプ被害など偶発的に生じたアクシデントのことを指します。このような場合、ウイルスが体内に侵入したかもしれない時点から72時間以内に、2種の抗HIV薬の内服を始め、それを約1カ月継続することで、かなりの確率で感染を防ぐことができます。72時間というのは一応のタイムリミットであり、内服開始は可能な限り早くする必要があります。この方法を「暴露後予防」と呼び、国際的にはPEP(Post-Exposure Prophylaxis)と呼ばれています(ここからはPEPで統一します)。

タイ国内で製造、販売されている後発品(ジェネリック薬)の抗HIV薬の合剤「Zilarvir」
タイ国内で製造、販売されている後発品(ジェネリック薬)の抗HIV薬の合剤「Zilarvir」

 PEPは、それが有効であることを示す科学的確証(エビデンス)がそろい、世界保健機関(WHO)も有効性を認めていることから、ここ数年で世界的に普及しつつあります。タイでは当たり前のように行われていますし、私が院長を務める太融寺町谷口医院(以下、谷口医院)にも、外国人からは頻繁に問い合わせがあります。

 しかし、日本人からの問い合わせはさほど多くありません。その理由は、PEPについて詳しく知っている日本人が、諸外国に比べると随分少ないからです。これまでの状況から見ると、当分、PEPについて大きく報じるメディアはほとんどないと思いますし、それ故に今後もPEPが日本で広く普及する可能性は低いでしょう。

タイの10倍!? 普及の壁は高額な費用

 背景には「費用」の問題があります。谷口医院に「PEP希望」で問い合わせてくる外国人も、費用について説明を受けるとほぼ全員が驚き、「そんなに高いなら母国に緊急帰国して処方してもらう」という人(注1)が大半です。なにしろ治療費の総額が25万~30万円もするのです。

 医療者の針刺し事故の場合は、(通常は)労災の適用になり、PEPの個人負担額はゼロです。この場合、一般的にはエイズ拠点病院でPEPを実施します。もう一つの例として挙げた、レイプ被害のケースでは、通常は誰も費用負担をしてくれませんから、自身(被害者)が全額負担することになります。レイプ被害者は社会全体で救済すべきだと私は思いますので、本当は「性暴力被害者のためのPEP基金」のようなものがあればいいのですが、そうなると「レイプかどうかの判断」が困難なケースで問題が起こります(注2)。PEP開始は早ければ早いほどいいですから、誰かの判断を待っている余裕はありません。

 過去、私が多少なりともかかわった例で、実際にPEP開始にいたった日本人は、興味深いことにほとんどがタイ在住、もしくはタイに旅行中の日本人でした。彼、彼女らは、谷口医院や私が代表をつとめるNPO法人GINAのウェブサイトを通じて、タイから問い合わせをしてきます。そういった人たちは、レイプ被害というよりはタイ人とのアバンチュールを楽しんで……、というケースの方が多いのですが、私は可及的速やかに現地の医療機関を受診するよう助言しています。結果、PEPを開始するケースが多いようです。なにしろタイでは(医療機関によっても異なりますが)日本円で2万~3万円で治療が受けられるのですから。日本の10分の1です。タイ人はもっと安く処方してもらえるようです。

 日本は諸外国に比べ薬価が高いことがしばしば指摘されますが、抗HIV薬についてはその傾向が顕著です。また、日本ではPEPは保険適用でない、という問題もあります。米国では多くの保険でPEPが適用になり、無保険であっても受けられる制度があります。これはおそらく、米国が国民に優しいというよりも、PEPの費用を社会で負担する方が、1人の感染者を生み、治療を行うよりもトータルでは安くつく、という合理的な考えがあるからではないかと思います。

HIV陽性のパートナーからの感染を防ぐ-PrEP

 続いて(2)について見てみましょう。パートナーがHIV陽性のときに毎日1日1錠抗HIV薬を内服するという方法で、「暴露前予防」と呼びます。国際的な呼称はPrEP(Pre-Exposure Prophylaxis)です(ここからはPrEPで統一します)。

 この方法が提唱された当初は、1錠のみで効果があるのかと疑問視する声もありました。しかし大規模研究で有効性が証明され、現在はWHOも推奨しています。ただし、これもPEP同様、日本では当分の間普及しないでしょう。理由もPEPと同じく「費用」です。日本では1年間で約150万円もかかります。今のところ保険適用がないためで、この費用を負担できる人は多くないでしょう。

HIV感染予防のために外国へ?

 これらの点で、日本のHIV、エイズ対策は遅れていると言われても仕方がありません。谷口医院の患者さんの中に、パートナーがHIV陽性でPrEPを実施しているオーストラリア人がいます。この人は母国の保険によってなんと個人負担ゼロでPrEPが受けられるというのです。また、最近受診した米国の患者さんによると、オバマケアが続く限り(トランプ次期大統領がどのように対応するかは不透明ですが)、1日1ドルでPrEPが受けられるそうです。知人の米国人研究者も「日本は最新の抗HIV薬が使えるのに、PEPやPrEPが一向に普及しないのはなぜだ?」と言っていました。

 今のところ、HIV、エイズに関わっている医療者からも「PEP、PrEPを保険適用に」という声はあまり聞こえてきません。がんの治療薬である免疫チェックポイント阻害剤やC型肝炎の新しい薬がクローズアップされ、高価な薬によって保険医療制度が破綻すると言われている中、PEP、PrEPを保険適用に……という声はかき消されてしまうのかもしれません。しかし諸外国で一般的に行われている治療が、高すぎる費用のせいで行えないというのは歯がゆい思いがします。そのうちに、PEP、PrEP目的でタイに渡航するという新たな「医療ツーリズム」が生まれるかもしれません。

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注1:興味深いことに、このような問い合わせをしてくる外国人のほとんどが西洋人の男性です。一方、西洋人の女性からの問い合わせはほとんどなく、アジア人からの問い合わせもほとんどありません。

注2:レイプを加害者ごとに分類すると、最も多いのが「よく知っている人」で全体の6割以上を占めるとしている統計もあります。この場合は、加害者にレイプの意識がないこともあります。「性暴力被害から考えるHPVワクチン」の回で詳しく述べていますので、参照してください。

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谷口恭

太融寺町谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。