実践!感染症講義 -命を救う5分の知識-

日本脳炎のワクチンが今必要なわけ

谷口恭・太融寺町谷口医院院長
  • 文字
  • 印刷

「世界一恐ろしい生物=蚊」の実態を知る【12】

 数年前、風疹が流行した時、妊婦が感染すると「先天性風疹症候群」と呼ばれる病気で、奇形を伴った赤ちゃんが生まれてくることが一般に広く知られるようになりました。今年(2016年)8月には各地で麻疹(はしか)騒動があり、これら二つの感染症については、成人もワクチンの接種が必要、という認識が広まってきたように思います。

 また、風疹、麻疹に加え、おたふく風邪と水痘(みずぼうそう)のワクチンも、成人でも接種すべきだということが、特に健康への関心が高い人たちの間で理解されつつあります。16年10月から新生児を対象に接種が定期化されたB型肝炎ウイルスについても、新生児だけでなく、国民全員が接種すべきだと指摘されることが増えてきました。

なぜ日本脳炎ワクチンは注目されないのか?

 一方、そのワクチンの重要性、必要性が今一つ社会に浸透していないと感じるのが日本脳炎です。なぜ日本脳炎ワクチンの必要性はあまり語られないのか。考えられるその理由を挙げてみます。

(1)日本脳炎はブタがいるところでしか感染、発症しない。

(2)ウイルスを媒介するコガタアカイエカは、国内でも生息しない地域がある。

(3)発症者が少なく過去20年ほどはせいぜい年間10人程度である。

(4)ワクチンは昔からあり、昭和30年代以降に生まれた世代の多くは接種済みである

 (1)については私自身もつい最近までそう考えていました。しかし前回述べたようにブタが生息していない対馬で同時期に4名もの患者が現れました。イノシシが媒介している可能性が強く、西日本には野生のイノシシが多数生息しています。つまり、(1)はすでにワクチンを控える理由にはならないと考えるべきです。

 (2)については事実であり、現在も北海道にはコガタアカイエカが生息していません。しかし、北海道の人も本州に旅行する機会もあるでしょうから、やはりワクチンは接種すべきです。

発症すると1/3が死亡 特効薬もなし

 (3)についても確かにその通りで、発症者は非常に少ないと言えます。ただ、これからもこの傾向が続くとは限りません。なぜなら、前述のようにイノシシもウイルスを媒介するとなると、養豚場に縁がない人でも感染のリスクが出てくるからです。関西で言えば、大阪府北部の箕面市や、兵庫県の六甲山はイノシシの高頻度出没地です。紅葉の名所である箕面に紅葉狩りに行ったときや、六甲山をハイキングしたときに蚊に刺されて日本脳炎に感染、発症、という事態が今後生じる可能性もないとは言えません。

 そして、それ以上のリスクが海外での感染です。日本脳炎はその名称から日本に多いと思われがちですが(そう思っている外国人は少なくありません)、実際は中国や東南アジアでより大きな問題となっている感染症です。これらの地域では毎年約5万人が発症し、約1万5000人が死亡しています。

 「5万人が発症し1万5000人が死亡」ということは、致死率はおよそ3分の1になります。日本脳炎には特効薬がありません。発症してしまったら死を覚悟しなければならないのです。残りの3分の2も全員社会復帰できるわけではなく、死を免れても、その約半数に神経症状の後遺症が残り、多くの人は寝たきりになります。つまり、日本脳炎を発症して治癒する確率は3分の1程度しかないのです。

「発症者は少ない」事実の裏にあることは…

 さらに前回解説したように、日本脳炎はウイルスに感染しても大半はまったく症状が出ません。実際に症状が出現するのは感染者の100~1000人に1人です。アジア全域で5万人が発症しているということは、感染者は500万~5000万人に上る、ということを意味します。

 アジア全域で最大5000万人……。それほど多いわけではないのでは? そう感じるかもしれません。しかしそれは誤りです。日本脳炎のワクチンはアジアの多くの地域で接種されています。中国、タイ、ベトナム、マレーシアの一部などでは定期接種化されていますし(注1)、それ以外の国でも接種している人は少なくありません。にもかかわらず最大5000万人が感染しているのです。もしもアジア全域で誰もワクチンをうたなかったとすると、いったいどれだけの人が感染するのでしょうか……。

日本脳炎ワクチンの接種を受ける子供=大阪市天王寺区の大阪府医師会予防接種センターで2010年8月26日、貝塚太一撮影
日本脳炎ワクチンの接種を受ける子供=大阪市天王寺区の大阪府医師会予防接種センターで2010年8月26日、貝塚太一撮影

子供の頃うったワクチンの効果は維持している?

 ここで、最初の「日本脳炎ワクチンの必要性が語られない理由」の(4)に話を戻します。アジアの状況を知った人でも、「私たち日本人はワクチンをうっているんだから心配ないんじゃないの?」と思う人が多いでしょう。たしかに、今秋、対馬で発症した4人は全員が高齢者(70代以上)でした。ワクチンを接種していない世代です。では昭和30年代以降に生まれ、幼少時にワクチンを接種した世代であれば安全なのでしょうか。その認識も、私は誤りだと考えています。

 これを検証するには、各年代の抗体保有率を調べればいいのですが、私の知る限りそのような研究はありません。そこで、私自身が自分で採血して抗体を調べてみました。結果は陰性(注2)。もちろん私が陰性でもこれを読んでいるあなたは陽性かもしれません。しかし、日本脳炎のワクチンは不活化ワクチン(病原体を殺して毒性をなくし、免疫を活性化させる成分を抽出してつくったワクチン)で、生ワクチン(麻疹や風疹ワクチンなど、病原体を弱毒化してつくられたワクチン)に比べると抗体が維持される期間が短くなります。麻疹や風疹の生ワクチンでさえ抗体が消えることが多いのです。子供の頃に接種した日本脳炎ワクチンが(私と同様に)成人になってから消えていても何らおかしくはありません。

大人もワクチンの追加接種を

 日本脳炎のワクチンは非常に優れたものです(注3)。ワクチンシリーズでお伝えしたように、すべてのワクチンは「理解してから接種する」が原則ですから、接種を強制されるものではありません。しかし、すでにブタがいない地域でも発生していること、韓国では警報が発令されていること、アジア全域での多くの発症者の報告があり、子供の頃のワクチンは効果が長続きしないこと、などを考えると多くの成人はワクチンの追加接種を検討すべきだと思います。

 世界一恐ろしい生物=蚊が原因となる感染症のなかでも日本脳炎は「死に至る病」です。しかし、蚊が原因であってもワクチンで防げる数少ない感染症でもあるのです。

 次回は、日本脳炎と同様に、蚊が媒介し、ワクチンで防げるもう一つの感染症「黄熱」を紹介します。

   ×   ×   ×

注1:マレーシアの大部分やインドネシアで日本脳炎のワクチンが定期化されていないのは、イスラム教徒は豚を食べないからだと思われます。したがって、アジアでもイスラム圏へ渡航するだけなら日本脳炎のリスクはさほど高くないかもしれません。

注2:この結果を見てただちにワクチンを接種しました。私はNPO法人GINAの活動のため、しばしばタイに渡航します。一度東北地方に住む知人夫婦の実家に招かれ、そこで豚肉をごちそうになったことがあります。村の若者が10人ほど集まり近くの養豚場(といっても野原にブタが放し飼いにされているだけです)に行くと言うので私もついていきました。一番大きなブタを大人数人で捕まえ、足を上につるして、頸(けい)動脈にナイフを入れて血を抜き、皮をはいでいきました。こんな生活をするならワクチンは必須でしょうし、ここまでの辺地に行かなくてもタイでは少し田舎ならいくらでもブタがいますから、リゾート地以外のタイに旅行するなら接種は必須だと思います。

注3:日本脳炎ワクチンは、2004年に山梨県の14歳の女子が意識障害や手足のまひが起きる急性散在性脳脊髄(せきずい)炎(ADEM)という病気になったことを受けて、翌年、厚生労働省が「現行のワクチンでの積極的推奨の差し控えの勧告」をおこなっていましたが、その後再開されています。

医療プレミア・トップページはこちら

谷口恭

太融寺町谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト