
抗菌薬の過剰使用を考える【5】
前回紹介したクロストリジウム・ディフィシル(以下「CD」)に感染した女性カウンセラーは、あらゆる抗菌薬が無効であり、下痢が止まらず、視力・聴力が低下し、髪が抜け、体重減少が顕著になり、もはやなすすべがありませんでした。そして最後の望みに賭けます。英国の生物学者アランナ・コリン氏の著書「あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた」(注1)から、その経緯を見てみましょう。
カリフォルニアに飛んで受けた治療は…
彼女は治療のため、ハワイからカリフォルニアへの航空券を手配します。航空券は2人分で夫も妻に付き添いました。しかし、夫は単なる付き添いではありません。妻の「ドナー」となるのです。ドナーというのは臓器移植のときに用いられる用語で、臓器を提供する人のことを言います。しかし彼女の夫は自分の妻に臓器提供をしたのではありません。では何を提供したのか。「便」です。

他人の便を自分の腸内に入れる……。これがここ数年で急速に注目度が上がっている「糞便(ふんべん)移植」です。CDに糞便移植が有効と考えられたのはなぜでしょうか。前回述べたように、もともとCDはそれほど強い細菌ではなく、腸内の他の細菌のなわばりに侵入するような度胸はありません。目立たぬようにひっそりと生息していたのです。ところが人間によって抗菌薬が投与されたことにより、それまで腸内を仕切っていたような強い細菌がバッタバッタと倒れていき、ライバルがいなくなったためにのし上がることができました。そして、CDを退治するために強力な抗菌薬が使われれば使われるほど、もともとマジョリティー(多数派)として存在していた細菌はさらに少なくなり、結果としてCDをますますのさばらせることになるのです。
糞便移植後、数時間で効果が
CDは細菌ですから抗菌薬を使うというのが誰もが考える治療法ですが、結果として逆効果になってしまいます。ではどうすればいいか。本来腸内を仕切っていた細菌をもう一度呼び戻せばいいではないか、という考えが出てきます。そのために最も手っ取り早い方法が「健康な人の腸内細菌の塊(つまり「糞便」)を患者の腸内に入れる」というものです。
夫の糞便をろ過した注入液を大腸内視鏡を用いて自身の腸内に入れてもらったこの女性が変化を感じたのはわずか数時間後だったそうです。数カ月ぶりにトイレに行く必要を感じなくなり、数日後に下痢が治りました。2週間後には再び髪が生えだし、体重が戻ってきたのです。
CDでは治癒率9割以上という論文も
医学というのはたった1例の報告ではその治療の有効性を認めません。単なる症例報告に過ぎないからです。有効性を実証するためには症例を重ねていかなければなりません。そして、世界中で同様の治療がおこなわれるようになり、その有効性が明らかになりつつあります。論文によって差はありますが、CDに対する糞便移植の成績は軒並み素晴らしいものです。
例えば、医学誌「Annals of internal medicine」に掲載された論文によると、他人の糞便を移植した22人中20人で下痢がなくなっています。なんと治癒率9割以上!です。抗菌薬を用いてCDによる下痢が治る確率がせいぜい20~50%程度ですから、これは画期的な治療法と言えます。
糞便移植は腸内フローラの乱れを直す救世主か?
ところで、数年前から「腸内フローラ」(注2)という言葉をよく聞きます。腸内には100種以上の細菌が100兆個以上存在しヒトと共存していて、抗菌薬の使用でそのバランスが崩れるとさまざまな病気になる、と言われています。これが正しいのかと問われれば「イエス」です。しかし「腸内フローラ説」は大筋で正しいとしても、だからといって「糞便移植」が腸内フローラの乱れで起こるすべての疾患の救世主的治療と考えるのは時期尚早です。
腸内フローラの乱れで生じると考えられている疾患は、潰瘍性大腸炎やクローン病といった炎症性腸疾患、花粉症やアトピー性皮膚炎、気管支ぜんそくなどのアレルギー疾患、膠原(こうげん)病などの自己免疫性疾患、多発性硬化症などの神経疾患、さらに自閉症やうつ病といった精神疾患まで多岐にわたります。また、肥満との関係性も指摘されています。
発症初期なら効果はあるのでは
では、糞便移植でこれらを治療すればどうなるのでしょうか。実はこれらのなかでいくつかの疾患に対してはすでに糞便移植が試みられています。結果は、報告にもよりますが、少なくともCDほどはいい成績が出ていません。私の意見を言わせてもらえるなら、例えば、何十年も治らなかった難治性の潰瘍性大腸炎が数回の糞便移植で治るはずがない、と思っています。ではなぜCDには効果があるのか。おそらく「時間」でしょう。CDは腸内フローラのバランスが乱れてからそれほど長時間はたっていません。しかし、長年続いた潰瘍性大腸炎では、すでに腸内の粘膜細胞が炎症を繰り返していて元の状態からはほど遠くなっています。
では発症初期ならどうでしょう。あるいはこういった疾患の予防として糞便移植をおこなうのはどうでしょう。私は「有効である可能性はある」と考えています。そして、これを実践したいと考える人はこれから急増してくるのではないかとみています。アランナ・コリン氏は著作のなかで、自閉症の子供をもつ両親が、病院に行かずに自分で糞便移植を試みていることを紹介しています。家庭用のキッチンミキサーとこし器、生理食塩水を購入し、あとは動画サイトYouTube(注3)で作り方を検索して学ぶそうです。
安易に抗菌薬を使わないことが最も大切
前々回に述べたように、2050年には世界の死因の第1位が薬剤耐性関連によるものと言われています。そして直接の死因にはならないとはいえ、アレルギー疾患や精神疾患、肥満の原因が抗菌薬ではないかと指摘されることが増えてきました。それに、もともと抗菌薬というのは他の薬剤に比べて副作用が起こりやすいものです。しかし、一方では抗菌薬が人類の生命に多大なる貢献をしてきたのは紛れもない事実であり、もしも抗菌薬がなければ我々は簡単な手術を受けることさえできなくなります。
現在の世界3大感染症は、結核、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)、マラリアです。しかし近いうちに「薬剤耐性菌」が第1位となると推定されています。しかも、がんや生活習慣病をしのいですべての死因のなかで世界1位となると言われているのです。
抗菌薬が気軽に用いられてはならない、ということが広く社会に浸透することを願いたいものです。
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注1:「あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた」 アランナ コリン 著、矢野真千子訳 河出書房新社 2016年
注2:「腸内細菌叢(そう)」とも言いますが、腸内フローラという言葉の方が世間に浸透してきているようです。「フローラ」とは元々お花畑という意味で、腸内に生息するさまざまな細菌が、お花畑のようにきれいに棲み分けて生息していることからこのように呼ばれています。似たような意味の言葉に「マイクロバイオータ」があります。これはヒトと共存している微生物の総称で腸内フローラよりもより大きな意味になります。腸内だけでなく、皮膚に常在しているような微生物も含みます。抗菌薬の使用などによりマイクロバイオータの組成が乱れた状態を「ディスバイオーシス」と呼びます。
注3:探してみると実際にありました。
参考文献:「失われてゆく、我々の内なる細菌」 マーティン・J・ブレイザー著、山本太郎訳 みすず書房 2015年
「腸科学 健康な人生を支える細菌の育て方」 ジャスティン・ソネンバーグ著、鍛原多恵子訳 早川書房 2016年
太融寺町谷口医院院長
たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。