実践!感染症講義 -命を救う5分の知識-

乳児に蜂蜜厳禁はなぜ 知られざる「常識」

谷口恭・太融寺町谷口医院院長
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 そうか、これは我々医療者からすれば当たり前のことだけど、患者さんは初めて聞くんだ……と感じることが臨床の現場ではしばしばあります。私は医学部入学前に社会人として会社勤めをしていた経験があることもあって、医者の“常識”を患者さんに押し付けないことをポリシーにしてきたつもりですが、すでにその“常識”に染まってしまったのか、患者さんから「知らなかった」と言われて反省することがたびたびあります。

医師と患者「当たり前」「常識」の差

 そのようなことは医学のどの分野にもあるのですが、感染症の領域でも「インフルエンザの可能性があればアスピリンを飲んではいけない」「抗菌薬は細菌感染でも重症例のみに使用すべきだ」「B型肝炎ウイルスは唾液から感染することもある」など、実例はいくらでも挙げられます。こういった例をゼロにすることはできないにせよ、正しい知識、情報が伝えられていないことが原因で命を失うようなことが起きてはなりません。

蜂蜜を食べた乳児の命奪った「ボツリヌス」とは

 「生後6カ月の乳児が蜂蜜を食べてボツリヌス毒で死亡」

 このニュースが日本の出来事(注1)と知って耳を疑いました。どうして……と思ってしまうのです。ですが、両親を責めるのは間違いです。このようなことは学校では(おそらく)習いませんし、産科及び小児科の医療スタッフが親御さんに伝えなければならないことです。

 2017年2月に北朝鮮の金正男(キム・ジョンナム)氏がマレーシア・クアラルンプール国際空港で殺害された事件で使われたのは、VXガスとの見方が有力です。1990年代、オウム真理教による松本サリン事件、地下鉄サリン事件で有名となったサリンは、日本では最も有名な猛毒と言っていいでしょう。先日、シリア北部で起きた空爆でも化学兵器として使用され、悲惨な被害を生みました。他に「毒」といえばトリカブト、青酸カリ、ヒ素などがよく知られているでしょうか。では「史上最強の毒」とは何でしょう。

サリン、VXガスを超える史上最強の毒

 答えは「ボツリヌス」です。これも医療者ならば誰もが知っている“常識”です。しかも、前述したサリンやVXガスなどの毒と比べても、何千倍から何万倍も強力な毒と考えて間違いありません。ごく微量のボツリヌスで人を死に追いやることができるのです。一般的には体重1kgあたり1μg(マイクログラム=100万分の1グラム)が致死量と言われていますから、体重50kgの人ならわずか50μg=2万分の1gで死に至ります。

 そのボツリヌスを産生するのが他ならぬ「ボツリヌス菌」です。ボツリヌス菌は以前紹介したクロストリジウム・ディフィシルの仲間で、正式名を「クロストリジウム・ボツリヌム」と呼びます。クロストリジウム・ディフィシルがヒトの腸内にも生息しているのに対し、ボツリヌス菌が生息するのは食品の中、それも酸素があるところでは生きていけず、潜んでいるのは、酸素のない発酵食品や缶詰、瓶詰といったところです。

 国内で初めてのボツリヌス検出例は、1951年に報告されました。北海道で自家製の「ニシンのいずし」を食べた4人が亡くなっています。ボツリヌスによる中毒事件で最も有名なのは84年、熊本県で製造された真空パックのからしレンコンによる集団食中毒です。この時は合計36人が発症し11人が死亡しています。

過去最大の集団中毒が起きたタイの“常識”

 11人が死亡となるとかなり大きな食中毒事故ですが、一般に「世界最大の集団発生」と言われるのは、2006年にタイ北部で起きたタケノコ缶詰食中毒です。この時は209人が発症、うち134人が入院し、そのうち42人が呼吸困難となり人工呼吸器が必要となりました(ただし死亡者はゼロです)。この集団発生が起きた時、タイには治療に必要なボツリヌス抗毒素製剤の国内備蓄がなく、日本を含む海外諸国が支援しました。

 個人的な話になりますが、私はタイのエイズ孤児やHIV陽性者を支援している関係で、タイにしばしば渡航します。特にタイ北部にはエイズ施設が複数あるため、毎年のように訪問しています。タイの国土は南北に長いため、日本と同様に南北で気候や文化が全く異なります。タイの場合、北部と南部では人の外観(見た目)も異なりますし、食べ物はまったく違ったものになります。比較的涼しい北部では、発酵食品などの保存食が日常的に消費されており、蜂蜜の産地としても有名です。タイの名産品と聞いて蜂蜜を思い浮かべる人は少ないかもしれませんが、タイ北部の人と仲良くなるとおみやげによく蜂蜜をもらいます。

 ある時、現地の人と蜂蜜の話をしていてボツリヌス菌の話題になりました。そのタイ人が言うには「乳児に蜂蜜を与えてはいけないことは、タイ人なら誰もが知っている」そうです。その時、私は「日本も蜂蜜をよく食べる民族だから同じだよ」と答えたのですが……。

継続した危険性の周知が必要

 皮肉なことに、ボツリヌスと言うと、最近では食中毒ではなく美容に使う「ボトックス(商品名)」を思い浮かべる人の方が多いようです。ボツリヌスは神経毒で、その神経が支配している筋肉を弛緩(しかん)させる作用がありますから、顔面に注射するとしわが伸びて見た目を“若返らせる”ことができるのです。ボトックスは美容以外にも眼瞼(まぶた)のけいれんや、最近では多汗症の治療にも使われています。

 亡くなった命を取り戻すことはできませんが、我々は今回の乳児の死亡事故から学ばねばなりません。医療者は乳児に蜂蜜を与えてはいけないことを徹底して伝えることが必要です。このような大切なことは、もちろん厚生労働省も離乳の注意として案内していますが、長い文章の中に埋もれてしまっています(注2)。

 もしもあなたの周囲に乳児がいれば、親御さんに教えてあげてみてはいかがでしょうか。

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注1:報道によれば、東京都は2017年4月7日、足立区の生後6カ月の男児が同年3月、蜂蜜が原因の食中毒で死亡したことを発表しました。家庭で与えた市販の蜂蜜にボツリヌス菌が含まれ、乳児ボツリヌス症を発症したとされています。

注2:こちらのページを参照ください。42ページの真ん中あたりに「蜂蜜は乳児ボツリヌス症予防のため満1歳までは使わない」と記載されています。この原稿を執筆後の2017年4月11日、厚労省は「ハチミツを与えるのは1歳を過ぎてから。」というサイトを公開、大きな文字で注意喚起を始めました。

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谷口恭

太融寺町谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。