実践!感染症講義 -命を救う5分の知識-

日本初の女性医師を生涯苦しめた病とは

谷口恭・太融寺町谷口医院院長
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抗菌薬の過剰使用を考える【11】

 女性外科医が主人公のテレビドラマが高視聴率を取るこの時代、医師という職業は女性が憧れる職業の一つといっていいでしょう。フィクションの世界だけではありません。小学生の女子の憧れの職業ランキングの上位には医師が入ると言いますし、高齢者が女性医師の治療を受けると、男性医師に受けた場合と比べて死亡率も再入院率も低くなるという米国の研究(注1)を見ると、社会からの女性医師のニーズも高いということでしょう。男女雇用機会均等法が制定され30年以上が経過しても、依然多くの日本の職場で男女平等とは言えない状況が残っている中、医師は女性が男性と対等に渡り合える数少ない職業と考えられているようです。

 もっとも現実には、女性が優位どころか、男女平等とも言い切れず、女性医師と男性医師がまったく対等とは思えないシーンをしばしば目にします。患者さんの中には、女性医師に対しあきらかに男性医師とは異なる態度を取る人もいます。診療科にもよりますが、女性医師を下に見るベテラン男性医師がいるのも事実です。

幕末生まれ、日本初の女性医師の人生

 そうではあっても、現在、女性の働きやすさが向上しているのは間違いないでしょう。20~30年前の1980~90年代と比較しても、です。医学部に入学する女性が増えていますし、大学の主任教授や大きな病院の管理職などに女性が就く例も普通に見られるようになりました。ここにたどり着くまでには多くの女性医師の奮闘があったことは想像に難くありません。

 今、全国で活躍する日本の女性医師の先駆けとなった人物をご存じでしょうか。それは荻野吟子という人です。一般にはあまり知られていないかもしれませんが、医師出身の小説家、渡辺淳一の「花埋み」は吟子の生涯をつづった名作です。まず、この作品を参考に吟子の生涯を簡単に追ってみましょう。

 1851年、ペリー率いる黒船が浦賀沖にやってくる2年前に、吟子は現在の埼玉県熊谷市に生まれます。10代後半で、土地の名主であり、後に銀行の頭取となる稲村貫一郎に嫁ぎます。家柄もよく聡明(そうめい)な吟子が結婚するまでの人生は順風満帆と言えるでしょう。しかし、夫から性行為を通して感染症に罹患(りかん)し、これが吟子の運命を変えます。その感染症とは「淋病(りんびょう)」。今では簡単に治る性感染症ですが、抗菌薬が存在しない当時、淋病を治すことはできなかったのです。

淋病の診療体験が医師を志す動機に

 治らない淋病を抱え、度重なる腹痛に苦しむ吟子は離婚をします。上京し、順天堂医院(現・順天堂大学医学部付属順天堂医院)に入院して治療を受けますが、有効な治療法がなく、結局吟子はこの病に生涯苦しめられることになります。またこの時の診察で、男性医師に囲まれ下半身をさらされて屈辱的な体験をしたことが、後に吟子を医師の道へと向かわせます。

子宮頸部の分泌物をグラム染色という方法で染め、顕微鏡で観察した画像=筆者撮影。写っているのは多数の好中球(白血球の1種)で、中央の円内にある好中球は淋菌(小さな粒のように見える)を貪食(白血球が異物を取り込むこと)している。患者は20代で、数カ月も断続的な腹痛に苦しんでいたが、抗菌剤の投与でまもなく治癒した
子宮頸部の分泌物をグラム染色という方法で染め、顕微鏡で観察した画像=筆者撮影。写っているのは多数の好中球(白血球の1種)で、中央の円内にある好中球は淋菌(小さな粒のように見える)を貪食(白血球が異物を取り込むこと)している。患者は20代で、数カ月も断続的な腹痛に苦しんでいたが、抗菌剤の投与でまもなく治癒した

 東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)を卒業した吟子は、私立の医学校「好寿院」の入学許可を特別にもらいます。男子学生の中でさまざまないじめを受けるものの(「花埋み」には男子学生に集団で襲われるシーンもあります)、吟子は優秀な成績で卒業します。しかし、前例がないという理由で医師国家試験を受けさせてもらえません。数年後、ようやく国家試験の受験を認められた吟子は見事合格。日本史上初の医師免許を取得した女性医師となりました。このとき吟子34歳です。

 その後は日本初の女性医師として脚光を浴び華やかな人生に……とはいきません。皮肉なことに、人生の重要な局面で、それまでおとなしくしていた淋菌が再び牙をむきます。耐えられないほどの腹痛がたびたび襲ってくるのです。それでも吟子はつらさに耐え、努力を怠りません。淋病が治らないわけですから出産はあきらめなければなりません。そして、結婚もかなわぬ夢と考えるようになったのも無理はありません。

 しかしそんな吟子に運命の男性が現れます。13歳年下の同志社大学の大学生です。当時吟子は医療の傍ら、キリスト教の洗礼を受け、信者としての活動を行っていました。大学生も敬虔(けいけん)なキリスト教徒で、京都から上京して吟子に恋をし、2人は周囲の反対を押し切って再婚します。このとき吟子39歳です。大学生は理想の新天地を求め北海道の未踏地域を開拓します。そして吟子も若い夫を追いかけ北海道に向かいます。

 ここで理想の新天地が誕生していれば、吟子の名前は現在、もっと広く知られていたかもしれません。実際には現実は厳しく冷たいもので、2人は挫折を味わいます。夫は夢をあきらめ、同志社大学に復学するものの若くして他界します。夫を支えるために吟子は北海道で開業していましたが、夫の死後東京に戻り1913(大正2)年、62歳で生涯を終えました。

ペニシリンが劇的に変えた淋病治療

 「花埋み」では、人生が好転しかけた頃に決まって、淋病がもたらす腹痛などの症状に苦しめられる吟子の様子が生々しく描写されています。吟子の他界から約30年後の1940年代、世界初の抗菌薬ペニシリンが登場し、普及します(注2)。世界中の人を苦しめていた淋病は、ペニシリンによりなんとわずか数時間で治療できる感染症となったのです。当時の米国では「penicillin cures gonorrhea in 4 hours(ペニシリンで淋病は4時間で治る)」と書かれた看板が町の至るところで掲げられるようになりました。

 英国の細菌学者、アレクサンダー・フレミングがペニシリンという物質を発見したのは1928年です。歴史に「もし」はないと言いますが、もしもこの発見が50年早ければ、世界史は大きく変わっていたでしょう。吟子も銀行の頭取の妻として平穏で裕福な暮らしをし、子どもや孫にも囲まれて平和な生涯を終えていたかもしれません。そうなれば、医師・荻野吟子は誕生していなかったでしょう。

再び人類の脅威となりつつある薬剤耐性淋菌

 ところが、抗菌薬ペニシリンの登場から約60年後の21世紀、新たな問題が起こっています。ペニシリンのみならず他の抗菌薬も効かない薬剤耐性淋菌が生まれたのです。そして、これを重要とみなした世界保健機関(WHO)は2017年2月27日、「最も重要な薬剤耐性菌12種」のリストに淋菌を加えました。

 次回は淋菌にともなう「誤解」について、そして薬剤耐性淋菌に対してどのような対策を講じるべきかについて述べていきたいと思います。

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注1:医学誌「JAMA Internal Medicine」2017年2月号に掲載された「Comparison of Hospital Mortality and Readmission Rates for Medicare Patients Treated by Male vs Female Physicians」という論文です。

注2:世界初の抗菌薬はペニシリンではなくサルバルサンだという意見があります。また、ペニシリンが登場するまでにサルファ剤に分類される一部の抗菌薬が開発されています。ですが、これらは有効性と安全性からペニシリンほどは普及しませんでした。世界的に細菌感染とその治療の歴史を一変させたのはペニシリンであり、それゆえ「世界初の抗菌薬」といえばペニシリンを指すことが多いのです。ペニシリンを発見したフレミングは1945年にノーベル医学生理学賞を受賞しています。

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谷口恭

太融寺町谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト