
理解してから接種する--「ワクチン」の本当の意味と効果【27】
医師は常に冷静沈着であるべきで、学会報告や論文で治療がうまくいかなかったり、患者さんを助けることができなかったりした症例を見聞きした時も、感情移入をしてはいけません。ですが、それでも「なんとかならなかったのだろうか……」と何度も考えてしまう事例があります。この連載で少し前に紹介した「乳児が蜂蜜を食べてボツリヌス症で死亡」などはその最たる例です。そして今回紹介するのもそのような例の一つです。
国立感染症研究所が毎月発行している「病原微生物検出情報」2017年5月号に麻疹(はしか)の症例が報告されました。この症例は、非常に示唆に富むもので、私がこの報告を読んだ最初の印象は「起こるべくして起こった」というものです。まずはこの症例を簡単にまとめてみましょう。
ジャカルタで麻疹に感染した男性
【症例】36歳男性
生来健康で、2016年8月中旬より出張のためジャカルタに滞在。渡航前は会社から推奨されたA型肝炎ウイルスワクチン(以下HAV)、B型肝炎ウイルスワクチン(以下HBV)、日本脳炎ワクチン(以下JE)の3種を接種。9月上旬に顔面腫脹(しゅちょう=腫れ上がること)が起き、その2日後に高熱と全身の発疹、さらに意識が混濁し現地の病院に緊急入院した。気管内挿管が行われ人工呼吸器管理となった。容体は改善せず、入院4日目にシンガポールへ移送。移送後もけいれん発作が起き、麻疹抗原および抗体が検出されて、麻疹脳炎の診断が確定して、抗けいれん薬の内服を開始した。入院11日目に症状が改善傾向になり人工呼吸を中止。発症26日後に帰国し、日本の医療機関に入院した。
日本での入院時、意識ははっきりしていたが、舌が正常に動かない、嚥下(えんげ)が困難など麻疹脳炎の後遺症が認められた。胃に管を入れて栄養を取り、リハビリテーションを開始。発症68日後に退院となり、その時点では食事が可能となったが、現在も後遺症が残存している。
どうして麻疹ワクチンを接種していなかったのか
さて、この症例、渡航前にワクチンを接種していなかったのはなぜでしょう。会社から推奨のあったのは、HAV、HBV、JEの3種のみ。滞在地域がジャカルタだけなら狂犬病は必須ではないのでいいとして、なぜ麻疹と風疹が含まれていないのか、この点が大いに疑問です。そして、会社は医学の専門家ではないですから責任を問われないかもしれませんが(とはいえ、産業医がこの男性に麻疹ワクチンの接種を推奨しなかったことは追及されるかもしれません)、3種類のワクチンを接種した医師は何をしていたんだ、と感じる人もいるでしょう。
では医師は何をしていたのか。ここからは私の予想です。事実とは異なる可能性もありますが、おそらくワクチンを実施した医師は、麻疹や風疹ワクチンの必要性についても説明したのではないでしょうか。そして、この男性は「会社から推奨されていないので大丈夫です」というようなことを言ったのではないか、と思います。
なぜ私がこのような推測をするかというと、太融寺町谷口医院でも同じようなケースが多数あるからです。この患者さんが言う「大丈夫です」というセリフ、最近頻繁に聞くのですが(もしかすると「流行語」なのでしょうか)、「余計なことを言わないで」というニュアンスも感じられ、そうなると現実的にはそれ以上のことが言えません。せいぜい「他の感染症のこともしっかり学んでおいてくださいね」と念押しをするくらいです。
会社が推奨していなくても リスクを負うのは自分自身
実際には、ほとんどのケースで「大丈夫」でなく、たいへん危険な状態で現地に渡航することになります。このような場合、会社が推奨していないワクチンの接種費用は、個人の自己負担になるようです。決して安くない額をポケットマネーで負担しなくてはならないのは腑(ふ)に落ちないでしょうし、会社の辞令や命令で現地渡航するわけですから、費用は会社が出すべきだ、という考えも分からなくはありません。
ですが、海外では(本当は日本でも)「自分の身は自分で守る」が原則です。特に感染症は「正しい知識」があれば防げることが多いのです。もしもこの男性が会社に頼らずに、自分自身でジャカルタの医療状況について調べていたらきっとこのようなことにはならなかったでしょう。

また、もしも会社の上司や人事部が、または産業医がもう少し現地の疾患のことを知っていたら違った対策を取っていたと思います。さらには、ワクチンを接種した医師が、男性を引き留めてでも麻疹の危険性を忠告していたら……。
改めて…5分で学べる知識が命を救う
ところでこの男性は36歳。現在の日本の30代はどれくらいワクチンを接種しているのでしょうか。国立感染症研究所のデータによると、30代以上で2回接種を完了しているのはせいぜい10%程度です。20代でも半数に満たない状況です。16年夏に起きた関西国際空港での流行時には、ワクチンを2回接種していても麻疹に感染した例がありました。また、この連載でも紹介したように、抗体があった研修医が修飾麻疹という軽症の麻疹に感染した例もありました。ワクチン1回接種のみでは、重症化し、この男性のように麻疹脳炎を起こす可能性もあります。こうなると命に関わることもあり、助かったとしてもこの男性のように後遺症に苦しめられることになります。
男性の後遺症が現在どうなっているのかは、「病原微生物検出情報」の報告からは分かりません。今のところ、この症例は一般のメディアでは報じられていないようですが、ワクチン1回では不十分なことや、感染して重症化する例があり得ることは、海外駐在員や海外に出張する人だけに限らず、観光旅行を含めて海外に行く機会のある人、外国人と接することがある人のすべてが知っておくべきではないでしょうか。海外ではいくら注意していても防げないアクシデントはありえます。ですが、感染症は知識で防げるのです。わずか「5分の知識」が「命を救う」のです。
谷口医院院長
たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。