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30年前の「エイズパニック」から学ぶ二つのこと

谷口恭・太融寺町谷口医院院長

エイズという病を知っていますか?【12】

 個人的な話になりますが、私は医学部入学前に別の大学も卒業しています。その一つめの大学、関西学院大学に入学したのは1987年4月です。私の出身高校は三重県伊賀市(当時は上野市)の上野高校。地元から通える大学はほとんどなく、卒業生の多くは全国に散らばります。卒業式から田舎を離れるまでの約1カ月間、残された時間を惜しむように地元の友達と遊んでいた私が、周囲から何度も言われたのが「エイズに気をつけろ」です。

エイズ発症は「死へのカウントダウン」だった

 同じ87年の1月、日本で初めて性交渉によりHIVに感染しエイズを発症した女性が報告され数日後に他界しました。当時は有効な薬が存在せず、HIV感染の宣告そしてエイズ発症は「死へのカウントダウン」を意味しました。この女性は性的に奔放で、神戸の性風俗店で勤務していたと報道されていました。そして、うわさの域を出ないとはいえ、神戸ではすでにエイズがまん延しているのではないかと言われ、感染を疑った人たちからの電話が保健所や医療機関に殺到しました。これが「エイズパニック」です。

 当時の私は、まさか自分がその9年後に医学部に入学するなどとは夢にも思っておらず、近いうちに出会うことになるすてきな恋人がエイズでなどあるはずがないと高をくくっており、自分にはまったく無縁のことと考えていました。正直に言えば、エイズを発症したその女性が気の毒だとか、その女性のために何か貢献したいなどということは一切思いませんでした。

 その女性のことを私が思い出したのは、エイズパニックから15年後、タイのエイズ施設を訪れたときです。過去に述べたように(「差別される病 2002年タイにて」)、2002年当時、タイでは抗HIV薬が使えず、HIV感染は死に直結することを意味し、施設に収容されていた若い人たちは「死へのモラトリアム」をただ過ごしているだけでした。私はそういった患者さんたちに積極的に話しかけてみました。

 女性の患者さんの何割かは春をひさいだ結果によりHIVに感染していました。そんなことを直接聞けるわけではありませんが、「どうやって感染したの?」と尋ねたときの回答から分かります。もちろん「セックスワークです」と直接答える人はいませんが、「過去に外国人が集まるバーで働いていた」とか「A-Go-Go(ゴーゴーバー)に在籍していたことがある」と答える女性は、金銭を介した性交渉があったと考えてまず間違いありません(ただし、正確に言えば、そういう女性にタトゥーが入っていたり、針の使いまわしをしていたりすることもありますから感染の原因を特定するのは困難です)。

 売買春の是非についてはここで論じませんが、その後私はタイのセックスワーカーから聞き取り調査などを行い(注1)、この問題は単純に考えられるわけではないことが分かりました。両親を助けるために、という話はいくらでもありますし、親に売られたとしか思えない例も少なからずありました。

15年後に分かった断片的な情報

 話を戻します。セックスワークでHIVに感染したと思われる患者さんたちから話を聞いていたとき、ふと1987年の神戸の女性のことを思い出したのです。思い出したと言っても、先述したように当時の私はこの女性に対してほとんど関心がなく、思いを巡らせたのは「感染が発覚し、死を待つのみという状態で、さらにマスコミでいろんな報道がされていたときに彼女は何を感じたのだろう」ということです。

 その後私は少しずつ、当時の報道の様子を調べてみました。しかし、インターネットがなかった87年当時の情報を探索するのは思いのほか大変です。それでもパソコン通信の検索データベースなどを用いて80年代の情報入手に努めました。その結果、断片的ではありますが、いくつかの有益な情報が得られました。

パニックで起こった「人権侵害」

 30年前の「エイズパニック」を現在の視点からみたとき、我々が考えなければならないことが二つあります。一つは「感染者に対する差別や偏見があってはならない」ということです。

 87年当時と今では価値観が違うのかもしれませんが、それを差し引いても当時の報道のあり方には違和感が拭えません。例えば、産経新聞は女性が他界した87年1月20日の1面トップ記事のタイトルを「エイズの女性死ぬ」としています。この「死ぬ」という表現を、見逃せないと感じるのは私だけではないでしょう。

 また、当時の新聞報道によれば、女性が“勤務”していたとされる性風俗店に関する情報、女性の本名や自宅の住所を暴露した記事などが週刊誌に掲載されています。さらに、葬式の場に“侵入”し、許可もなく遺影を撮影し写真週刊誌に掲載するジャーナリストもいたというのです。プライバシーに関する考え方は当時から多少の変遷はあるでしょうが、そういったことを考慮したとしてもこれが人権侵害なのは明らかです。エイズという当時は不治の病に感染した「患者」であるにもかかわらず、これではまるで凶悪犯罪の加害者の扱いです。現在はここまでひどい扱いをされることはないでしょうが、それでも「差別」が残存しているのは自明です(参考:「日本の医療機関 HIV差別の実態」)。HIVは決して差別される病ではないことを、この女性から我々は改めて考えるべきではないでしょうか。

「無防備な性行動」を続けた人も

 もう一つ、我々がこの事件から学ばねばならないことは「リスクの再認識」です。性交渉を介してのHIV感染1例目の報道を見聞きして、我々は改めて「性交渉」という日常的な行為でたいへんな疾患に感染することを知ったわけです。

 神戸の「エイズパニック」から半年余りが経過した87年9月5日、「関東の男性が売春女性から初のエイズ感染」という見出しで、毎日新聞は日本人男性が性行為でHIVに感染した事例を報道しました。この男性はHIV感染が発覚する以前の数年にわたり、性風俗店を複数回利用していたそうです(注2)。HIVはおしなべて言えば簡単に感染する感染症ではありません。しかし、感染者のなかには「その程度の接触で感染するなんて……」と思わずにはいられない例もあり、例えば生まれて初めてのオーラルセックスで感染した患者さんもいます。

 この関東の男性がHIVに感染したのは神戸のエイズパニックが起こる前だったかもしれません。しかし、エイズパニックが起こった後にも、無防備な性交渉でHIVに感染した日本人が大勢いるわけです。例えば、毎日新聞2003年12月8日には「子どもにうつってたら絶対許さない 夫への怒り」というタイトルで、妊娠中に夫が他の女性と性交渉をもちHIVに感染し、その夫から感染した主婦へのインタビュー記事が掲載されています。

 神戸のエイズパニック時には、報道を見聞きして心配になった人からの保健所への相談件数は1日に1000件を超え、なかにはノイローゼで入院したり、感染したに違いないと思い込んで自殺を図ったりした男性もいたそうです。パニックの後、自らの性行動を慎んだ人も大勢いるのでしょうが、無防備なままでいた人たちも少なくないわけです。

 今年(2017年)でエイズパニックから30年です。この機会に、感染者に対する差別が残っていないかを見直し、また、危険な性交渉を軽視していないかを再考してみるべきではないでしょうか。

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注1:調査をまとめたものは The XV International Congress of The International Society of Psychosomatic Obstetrics and Gynecology(2007年5月開催)、および第21回日本エイズ学会(2007年11月開催)で報告しました。NPO法人GINAのウェブサイトでも公開しています。

タイのIndependent Sex Workersについて

注2:日本人男性の性風俗利用率は他の先進国に比べて抜きんでています。数字をいくつか紹介しておきます。

 京都大学の木原正博医師らが1999年に行った全国の5000人の男性を対象とした調査では、日本人男性の買春率は10%を超え、欧米諸国が数%程度であることを考えると「著しく高い」と結論づけられています(http://idsc.nih.go.jp/iasr/21/245/dj2452.html)。

「成人男性の買春行動及び買春許容意識の規定因の検討」というタイトルの宇井美代子氏らの研究によれば、4~5年の間に「性風俗(ソープランド、ファッションヘルス、デートクラブ、ホテトルなど)を利用した」「女子高校生に金品を渡して、セックス等の性的行為をした」「海外で売春婦を買った」のいずれか1項目にでも「はい」と回答した者は14.6%にも上ります(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy/79/3/79_3_215/_pdf)。

 NHKも「日本の性プロジェクト(2002)」という調査を行っており、過去1年間に性風俗施設を利用したことがある男性の割合はやはり1割を超えています(「データブックNHK日本人の性行動・性意識」NHK出版 223ページ)。

 一方、欧米諸国のデータをみてみると、米国0.3%、英国0.6%、フランス1.1%としているものがあります(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2263.html)。

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太融寺町谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。