
感染症が他の病気と異なる最大の特徴の一つが「一気に広がること」で、実際「アウトブレイク(集団感染、大発生)」という言葉が使われるのは感染症の領域だけです。世界的にみると21世紀には、SARS(重症急性呼吸器症候群)、新型インフルエンザ、エボラ出血熱、ジカ熱などのアウトブレイクがあります。日本でも麻疹や風疹が一気に流行することが過去数年間に何度かありました。今年(2019年)は、国内ではさほど注目に値する感染症はなかったかもしれませんが、アジアのほぼ全域で猛威を振るっている感染症があり、今後日本で広がる可能性も十分にあります。それは「デング熱」です。デングウイルスが起こす病気で、突然の発熱で始まり、激しい頭痛、関節や筋肉の痛み、発疹などがみられます。14年には日本でも東京を中心に流行しましたが、その後は国内では流行せず、今年になって国内感染を疑う報告が3例あっただけです。しかし、アジア諸国では史上初ともいえるほど蔓延(まんえん)しています。今回は最近のデング熱のアジアでの広がりを紹介し、これからの対策について述べてみたいと思います。
各国で「アウトブレイク」
まずは私がどのように海外の情報を収集しているかを紹介しておきます。太融寺町谷口医院の患者さんは比較的若い方が多く、観光、出張・駐在、留学、ボランティア、バックパッカーなどで短期でも長期でもアジア諸国に出かける人が大勢います。そのような患者さんに助言するために、日ごろから現地の情報を複数のソースから入手することに努めています。現地の新聞の英語版ウェブサイトや各国の行政の英語のページは大変貴重な情報源ですが、全体をまとめた情報を入手するときはIAMAT(旅行者のための医学的支援の国際連盟、International Association for Medical Assistance to Travelers)という国際非営利団体のサイトを参照します。
そのIAMATによれば、現在アジアではほとんどの国でデング熱が「アウトブレイクしている」とされています。例外は、日本、韓国、北朝鮮、モンゴルくらいです。IAMAT以外ではECDCと呼ばれる、EUが管轄している旅行者のための組織があり、そのウェブサイトは世界の感染症の流行を知るのに有用です。デング熱については流行地域の分かりやすい地図が紹介されており、アジアで大流行していることが分かります。
近隣の台湾や香港で
ここからは各国・地域の状況を簡単に紹介します。まずは近くの台湾から始めましょう。
台湾では高雄などの南部を中心に06年以降毎年、アウトブレイクしています。15年には全土で4万3000人以上が感染し228人が死亡しました。台湾当局のホームページによると、今年は11月23日時点で596人が感染しています。
香港では、海外渡航時に感染した患者がほとんどですが、今年は香港内での感染が報告されています。

中国については、全土のデータが見当たらないのですが、今年は江西省で600人以上が感染したことを、現地の新聞が報道しています。
患者数の多いフィリピン
アジアで最も患者数が多いのはフィリピンです。WHO(世界保健機関)の報告によれば、今年はすでに37万人以上が感染し1400人以上が亡くなっています。この連載で繰り返しお伝えしたようにフィリピンではデング熱のワクチンが原因で死亡する小児が相次ぎフィリピン政府は「このワクチンを永久に禁止する」と発表しました(参照:「人ごとでないフィリピン『ワクチン不信』と麻疹急増」)。私の知人のフィリピン人によれば、ワクチン不信がすでに医療不信につながっています。後述するように安全なデング熱ワクチンの開発が日本の製薬会社により進んでいるのですが、将来フィリピン人に受け入れられるまでには「壁」がありそうです。
今年はタイでも異常なアウトブレイクが起こっています。私はタイのエイズ患者の支援をしており、今年は8月にタイに渡りました。医療者だけでなく一般の人もデング熱を話題にすることが多く、驚いたのが北部のチェンマイやチェンライでの流行が著しいことでした。現地の新聞によれば、今年はすでに13万人以上が感染し126人が死亡しています。タイでのアウトブレイクはおよそ20年ぶりです。
ベトナムでも事態は深刻で、現地の英字新聞によると、今年はすでに20万人以上が感染し50人以上が死亡しています。
涼しいはずの高地で流行 ネパール
その他のアジアの国々をみても軒並み今年の流行はすさまじいのですが、私が最も注目しているのはネパールです。インドの新聞によると、今年の7月から11月初旬までの感染者が1万4662人で6人が死亡しています。同紙によれば、カトマンズじゅうの病院に、毎日、合計約100人のデング熱の患者が訪れています。カトマンズはヒマラヤの山々に囲まれた盆地で標高は1400メートルもあります。そして、デング熱を媒介するネッタイシマカは従来このような比較的涼しい地域には生息できませんでした。主に地球温暖化が原因でこの地域にもすみつくようになったのです。
ネパールのデング熱流行を詳しく報じた科学誌「Science News」によれば、ネパールでは06年にも流行があったものの当時の感染者数はわずかであり、しかもインドとの国境付近の海抜が低い地域での流行にとどまりました。カトマンズでこれだけの流行が起こったなら、さらに流行する地域は拡大していくことが予想されます。
ネッタイシマカの繁殖に理想の気温は20~30℃くらいでありデング熱は50年までに日本でも流行する可能性がある、と「Science News」の記事は指摘しています。なお、ネッタイシマカは現在の日本には生息していないとされていますが、旅行者の荷物やコンテナに紛れていつやってきてもおかしくないと私自身は考えています。

日本でも国内感染3人?
日本では11月24日までで433人の感染が報告されています。ほとんどが海外での感染ですが、3人は国内感染の可能性があります。1人は9月の那覇市で、もう2人は修学旅行で訪れていた東京の生徒の奈良市での感染です。ネッタイシマカの生息しない日本でデング熱に感染するのは、ヒトスジシマカ(いわゆる「やぶ蚊」)もデング熱ウイルスを媒介するからです。ヒトスジシマカは北海道を除く全国に生息しています。
過去の連載で述べたように「世界で最も恐ろしい生物」が蚊です(参照:「世界で最も恐ろしい生物とは?」)。その蚊がもたらす感染症のなかで最も人類を苦しめてきたマラリアには現在優れた薬剤があり感染者数は減少傾向にあります。一方、デング熱はいまだに特効薬がありません。ワクチンに期待したいところですが、サノフィ社のワクチンはフィリピン人の多くの子供の命を奪いました。
正しい知識で蚊対策を
しかし「希望」はあります。武田薬品が開発中の新しいワクチンはこれまでの臨床試験から高い予防効果及び安全性が確認されています。今年11月に医学誌「The New England Journal of Medicine」に掲載された論文によれば、この新ワクチンは患者数を80%減らし、入院者数は95%減らす効果があり、そして重篤な有害事象の発症はプラセボ(偽薬)と差がありません。21年度の発売を目指すようですが、日本製ワクチンが有効な武器となることが期待できそうです。
しかしながら「世界一恐ろしい生物=蚊」はデング熱、マラリア以外にもジカ熱、チクングニヤなど他の感染症の原因でもあります。ワクチンが開発されたとしても「蚊対策」が重要なことには変わりありません。蚊のいるところに近づかない▽近づく場合は蚊忌避剤などで防護する▽蚊取り線香などを使って部屋に蚊を寄せつけない――などが大切なのです。
(参照:蚊対策四つの「決め手」【前編】、蚊対策四つの「決め手」【後編】)

来年(20年)の東京オリンピックを機会に、デング熱ウイルスが日本に入ってきたとしても各自が正しい知識を持っていればアウトブレイクは防げます。感染症は「5分の知識」が最強の武器となるのです。
谷口医院院長
たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。