真っ青に見える標高5750mのキャンプ1付近の雪面=2019年10月11日、藤原章生撮影
真っ青に見える標高5750mのキャンプ1付近の雪面=2019年10月11日、藤原章生撮影

 以前、奥多摩の森でこんなことを思った。沢を登った帰り、もう少しで最終人家というところで、ぼんやりと杉林を見ていた。

 そうか。自分はただ山にいたいから山に登っているんだ。誰もいない森でじっとたたずんでいたいから、山に来ているんだ。

 そうかもしれない。

 私は仕事があるから仕方なく東京に住んでいるが、できるなら地方に暮らしたい。どうしても東京周辺というなら、すぐに山に行ける奥多摩町やせめて八王子市あたりに住みたい。地形図を見たら一目瞭然だが東京の大半は異常に真っ平らで、どこも人だらけだ。

 もともと大都市とは肌が合わない。

 1歳から東京で暮らし、高校に入ると早々に満員電車が耐えられず、40分かけて自転車通学するようになった。わざわざ北海道の大学に行ったのも、東京を離れたかったからだ。

 頭であれこれ考えていたというより、中学2年から始めた山登りの影響がかなりあった。18歳のころは山のことしか考えておらず、長野の、京都の、北海道の大学に行ったらどんな山登りができるのか、という基準で進路を決めた。

 都会より地方都市、地方都市よりもさらに田舎、田舎のさらに山奥というふうに、常に端っこへ目が向いていた。

 私の友人たちがそうしているように長野や福島で半ば自給自足に近い晴耕雨読の暮らしをし、週末になれば山に行く。いつかそんな暮らしをしたいと思うのは、山登りの延長とも言える。

 ダウラギリの最終キャンプで強風に遭い、私たちは撤退せざるを得なかった。単にシェルパたちの決定に従ったというのではない。そのとき同じ標高7300mにいた他のパーティー、中には8000m峰を12座も登っている人も含めた総勢15人ほどの外国人たちとほぼ同数のシェルパたちがみな諦めた。

 急な雪面をザイルにぶら下がりながら、ゼーゼーと荒い息を吐き、私は「死なずに済んだ」と苦い喜びをかみしめていた。

 でも、そもそも、生き残るのが目的ならなぜ2カ月もの休暇を取って、200万円もの大金をはたいて、こんなことをやっているのか。

 登頂を諦めた2019年10月11日、私たちは標高7300mの最終キャンプをたたむと、4750mのベースキャンプまで一気に下りた。もう二度と見ることのない北東氷河の斜面は降ったばかりの雪でコーティングされ、空をそのまま映し込み青々としていた。

 シェルパのペマさん(48)がよく言う決まり文句がある。

 「心配するな。山はいつだってそこにある」

 「また来ればいい」と撤退を慰めるセリフだが、登るのに苦しくて仕方なかっ…

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藤原 章生

統合デジタル取材センター夕刊報道グループ

1989年、鉱山技師から毎日新聞記者に転職。長野、南アフリカ、メキシコ、ローマ、郡山市に駐在し現在は東京で夕刊特集ワイド面に執筆。2005年、アフリカを舞台にした本「絵はがきにされた少年」で開高健ノンフィクション賞受賞。主著に「ガルシア=マルケスに葬られた女」「資本主義の『終わりのはじまり』」「湯川博士、原爆投下を知っていたのですか」など。過去の記事はこちら→ https://mainichi.jp/search?q=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%AB%A0%E7%94%9F&s=date