母からもらった腎臓~生体間移植を体験して~

過信した「偉丈夫」 発症後も受診せず<連載第2回>

倉岡 一樹・東京地方部記者
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 私には腎臓が三つある。

 生まれ持った二つは機能していない。命綱は残りの一つ。母が「生きなさい」と、私にくれた。

 夫であり父親である私は、老いた母の「一人の体じゃない」という言葉に、生体腎移植手術を決意した。

 思えば、慢性腎臓病の発症から3年余がたつ。家族や友人や同僚らの支えで職場に復帰できた。1300万人とも言われる同じ病気の方々の参考に少しでもなれば、と書きためた日誌を開いた。

 いわゆるスポーツ記者だった。

 2003年に入社し、長崎県の佐世保支局を振り出しに、記者の仕事を続けていた。身長179センチ、体重75キロ。頭脳には自信はないけれど、体は丈夫だった。スポーツを担当する運動部に移ってからは、とりわけアマチュア野球(高校、大学、社会人)取材に打ち込んだ。

 体の異変に気づいたのは16年、酷暑の夏だった。足の甲がむくみ、靴が入りにくくなったのだ。

 当時、愛知、岐阜、三重の中京圏3県の取材を担う中部本社(名古屋市)の報道センタースポーツグループに所属していた。その年の4月に東京本社運動部から名古屋に異動し、担当は大相撲やサッカーだった。妻と娘を川崎市に残しての単身赴任で、食事はスーパーの惣菜(そうざい)中心ながら、野菜は取るように心がけていた。酒も付き合い程度だったのだ。なんら意に介さなかった。

 「暑いし、疲れたのだろう」

 むくみは軽く、ほかに体調の変化がなかったので、医者にはかからなかった。

 だが、むくみはその後も引かない。酷暑は過ぎたのに、疲れはたまる一方だった。やがて、外見にも変化が現れる。顔と手の甲が腫れぼったくなり、赤みを帯び始めた。さらに、体を動かすと腰や膝が痛い。歩くとすぐに息切れするようになった。晩秋の11月だった。

 「おい、大丈夫か?」

 上司や同僚に心配され始めたのもこのころからだ。そして年末、先輩記者と会社ですれ違った時、決定的な一言をかけられた。

 「お…

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倉岡 一樹

東京地方部記者

1977年生まれ。早稲田大卒。2003年、毎日新聞社に入社。佐世保支局を振り出しに、福岡報道部、同運動グループ、川崎支局、東京運動部、中部本社スポーツグループなどを経て、19年4月から東京地方部。スポーツの取材歴(特にアマチュア野球)が長い。中学生の一人娘が生まれた時、初めての上司(佐世保支局長)からかけてもらった言葉「子どもは生きているだけでいいんだよ」を心の支えにしている。