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ALS患者の嘱託殺人が意味するもの

野澤和弘・植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員
顔を伏せたまま送検される容疑者(右)=京都市中京区で2020年7月24日、久保玲撮影
顔を伏せたまま送検される容疑者(右)=京都市中京区で2020年7月24日、久保玲撮影

 神経難病である筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者に頼まれ、薬物を投与して殺害したとして医師2人が嘱託殺人の疑いで逮捕された。これまでも終末期に近い患者やその家族からの依頼で医師が患者を死なせ、刑事訴追されたことはある。

 しかし、今回は患者と面識のない2人の医師が、130万円の報酬と引き換えに嘱託殺人を行ったとされている点に特異さがある。医師の「狂気」はどこから生まれたのだろうか。そして、難病患者の孤独と苦悩について考えなければならない。

ネットで嘱託殺人を請け負う

 京都府警などによると、嘱託殺人容疑に問われた2人の医師は、2019年11月30日夕方、京都市中京区に住んでいるALS患者の女性(当時51歳)宅を訪れ、薬物を投与して殺害したとされる。

 ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を介して女性から「安楽死したい」という趣旨の依頼を受け、嘱託殺人を計画したという。医師の口座には女性から130万円が振り込まれていた。

 この女性は9年前にALSを発症し、事件当時は寝たきりの状態だった。ヘルパーが24時間介護をしていたが、2人の医師は知人を装って女性宅を訪れ、ヘルパーが席を外して別室にいた間に薬物を投与して立ち去ったという。

 医師が患者の治療を中止したり薬物を注入したりして死に至らしめた事件は過去にもある。1991年には東海大学病院で入院していた末期がんの患者に塩化カリウムを投与して死なせたとして、担当の内科医であった大学助手が殺人罪に問われた。刑事裁判で医師による安楽死の正当性が問われた唯一の事件だ。

 昏睡(こんすい)状態の患者を前にして家族から「楽にしてやってほしい」と何度も頼まれ、若い医師が心理的に追い込まれていく状況が裁判で明らかになった。被告の医師には有罪判決が下され、裁判官は医師による積極的安楽死として許容される4要件を示した。

①患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること

②患者は死が避けられず、その死期が迫っていること

③患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くしほかに代替手段がないこと

④生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

 終末期医療の現場に立つ医師の苦悩や切迫感、患者の尊厳や家族の精神的苦痛が裁判を通して議論され、こうした判決が導き出された。「被告には誤った一歩だったが、末期医療の歩みの一歩になるように願う」。裁判官が語り掛けると、うなだれた助手は「はい」と答えたという。苦しんだのは殺人に問われた医師だけではない。それを裁く裁判官にとっても悩みぬいた末の判決だったことがうかがわれる。

 今回のALS患者は精神的苦痛を訴えてはいるものの、「激しい肉体的苦痛」や「死が避けられず、死期が迫っていること」は当たらない。肉体的苦痛を除去・緩和する方法も尽くしてはおらず、代替手段について考慮した様子もない。何よりも、嘱託殺人に問われた医師には苦悩や切迫感のようなものがみじんも感じられない。

 逮捕された医師の1人は、宮城県名取市で呼吸器内科や心療内科のクリニックを経営している。自ら開設したと思われるブログに「高齢者を『枯らす』技術」とタイトルを付け、安楽死を積極的に肯定する死生観をうかがわせる投稿を繰り返していた。

 クリニックでは緩和ケアに力を入れ、ホスピスの運営も手掛けていた。昨年5月にはALS患者の主治医を経験した結果として「彼らが『生き地獄』というのも少しはわかる」「神経難病なので『日々生きていることすら苦痛だ』という方には、一服盛るなり、注射一発してあげて、楽になってもらったらいいと思っています」と書いている。

 「バレると医師免許がなくなる」「リスクを背負うのにボランティアではやっていられない」「個別に回答すると、自殺ほう助罪に問われる恐れがある」と、捜査当局の動きを警戒しつつも「日本でもできる『安楽死』について、医者として質問に答えます」などの記述が確認されている。

 女性を殺害したとみられる昨年11月には「安楽死して遺族が年金もらう、とかこれから流行るかもな」「安楽死外来(仮)やりたいなあ」と書かれていた。罪の意識などまったくない、精神的苦痛にもだえ苦しむ難病患者の命をもてあそぶ狂気としか思えないものがそこにある。

 逮捕されたもう1人の医師は東京都内でED(勃起不全)治療のクリニックを経営している。2人の医師はブログと同様のタイトル「扱いに困った高齢者を『枯らす』技術:誰も教えなかった、病院での枯らし方」という共著を電子書籍で出版している。紹介文にはこう記されていた。

 「認知症で家族を長年泣かせてきた老人、ギャンブルで借金を重ねて妻や子供を不幸に陥れた老人。今すぐ死んでほしいといわれる老人を、証拠を残さず、共犯者もいらず、スコップや大掛かりな設備もなしに消せる方法がある。医療に紛れて人を死なせることだ。違和感のない病死を演出できれば警察の出る幕はないし、臨場した検視官ですら犯罪かどうかを見抜けないこともある。荼毘(だび)に付されれば完全犯罪だ」

 医学の専門知識や医師という特権的な立場を悪用して、ゲームを楽しんでいるかのようだ。認知症の高齢者や難病患者を「家族を長年泣かせてきた」「妻や子供を不幸にした」と決めつけ、倒錯した正義を主張するあたりは、障害者施設に押し入り19人を殺害した植松聖死刑囚をほうふつさせる。報酬を得て殺しているという点ではさらに悪質ともいえる。

医の倫理をゆがませるもの

 認知症や難病の患者を生きるに値しないと見るゆがんだ価値観は逮捕された2人の医師だけのものであり、一般の医師の倫理とは相いれないだろう。そう信じたい。

 しかし、東京都福生市の公立福生病院で腎臓病の女性に対する人工透析の治療が中止され、女性が1週間後に亡くなった問題でも、「治らない」患者を死へ導こうとする医師の強い意思が働いていたことが印象に残る。

 この問題は、19年に毎日新聞の調査報道によって明らかになった。人工透析の治療を中止して死亡した女性(当時44歳)は、5年ほど自宅近くの診療所で透析を受けていた。透析治療のために腕に作った血管の分路(シャント)がつぶれたため、福生病院を訪れた。

 対応した医師は女性に対して①首周辺に管(カテーテル)を入れて透析を続ける②透析治療を中止する--という選択肢を示し、治療をしないと死につながるとの説明をしたという。女性は治療を中止することを選び、医師が出した意思確認書に署名をした。

 腎臓には血液中の老廃物をろ過して尿を作り出す機能があり、人間の体の「排…

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植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員

のざわ・かずひろ 1983年早稲田大学法学部卒業、毎日新聞社入社。東京本社社 会部で、いじめ、ひきこもり、児童虐待、障害者虐待などに取り組む。夕刊編集 部長、論説委員などを歴任。現在は一般社団法人スローコミュニケーション代表 として「わかりやすい文章 分かち合う文化」をめざし、障害者や外国人にやさ しい日本語の研究と普及に努める。東京大学「障害者のリアルに迫るゼミ」顧問 (非常勤講師)、上智大学非常勤講師、社会保障審議会障害者部会委員、内閣府 障害者政策委員会委員なども。著書に「スローコミュニケーション」(スローコ ミュニケーション出版)、「障害者のリアル×東大生のリアル」「なんとなくは、 生きられない。」「条例のある街」(ぶどう社)、「あの夜、君が泣いたわけ」 (中央法規)、「わかりやすさの本質」(NHK出版)など。