実践!感染症講義 -命を救う5分の知識-

新型コロナ ブラジルでの“集団免疫”とその代償

谷口恭・太融寺町谷口医院院長
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ブラジル・マナウス市の風景。手前はアマゾン川の支流、ネグロ川。マナウス市には日本の総領事館や日本人学校があり、進出している日本企業は多い=ゲッティ
ブラジル・マナウス市の風景。手前はアマゾン川の支流、ネグロ川。マナウス市には日本の総領事館や日本人学校があり、進出している日本企業は多い=ゲッティ

 「集団免疫」という言葉を見聞きする機会が増えてきています。集団免疫とは簡単に言えば、その地域の住民の大勢がその感染症に対する免疫を持つことで、これにより、たとえ感染者がでても、地域全体に感染が広がることは阻止できます。例えば、ポリオウイルスは世界のほとんどの国で集団免疫が成立しているためにもはや流行する可能性はほとんどありません。このように集団免疫というのは、一般的にはワクチンが普及したときに成立する概念なのですが、新型コロナに関しては「感染して治癒した者が増えれば集団免疫が成立するのではないか」という意見があり、これについて現在世界中で、そして医療者の間でも激しい議論が交わされています。

「集中的保護」を提言する「グレートバリントン宣言」

 2020年10月4日、いわゆるロックダウンなどの行動制限を中止して、それらがもたらす社会的損害を最小化しようとする「グレートバリントン宣言」が発表されました。米国マサチューセッツ州グレートバリントンにあるシンクタンク「American Institute for Economic Research」が中心となり、世界中の科学者及び臨床医、そして一般市民の署名を集めています。ウェブサイトは世界各国の言語に翻訳され、日本語のページもあります。だれでも簡単に署名することができ、科学者や医師の署名と、一般市民の署名は別枠で集計されています。

 同サイトの日本語のページには宣言の趣旨として次のような説明があります。

 <私たちは感染症疫学者および公衆衛生科学者として、現行の新型コロナウイルス政策により人々の身体的および精神的健康が害されることを深刻に懸念している。ここに、「集中的保護」という手法を提言する>

 「集中的保護」とは、ロックダウンなどで一律に人々の行動を制限するのではなく、高齢者や身体障害者など新型コロナに感染すると重症化しやすい人に絞って隔離政策をとり、若者には従来通りの生活を再開してもらうことを指しています。

 宣言が掲載されているサイトによれば、10月27日現在、科学者約1万1000人と医師約3万2000人、そして一般市民約58万人が署名しています

人影がほとんどなくなった観光地のタイムズスクエア=米ニューヨークで2020年3月31日、隅俊之撮影
人影がほとんどなくなった観光地のタイムズスクエア=米ニューヨークで2020年3月31日、隅俊之撮影

社会の制御が重要だとする「ジョンスノー覚書」

 一方で10月15日、グレートバリントン宣言に反対する内容の声明が医学誌「Lancet」に掲載されました。著者は「(ロックダウンなどの)社会のコントロールが、安全で効果的なワクチンと治療法が今後数カ月以内に完成するまでは、私たちの社会と経済を保護するための最良の方法だ」と述べ、この考えに賛同する人は署名をしてほしいと呼びかけ、「ジョン・スノー覚書」と名付けられた署名のためのサイトを案内しています(ジョン・スノーは19世紀の英国の医師で、現代疫学の創始者の一人といわれます)。サイトは英語版だけですが、科学・医学に従事している人であれば誰でも簡単に署名できます。サイトによると、10月27日現在で約6400人が署名しています。

 つまり、行動制限を撤廃し社会に活力を戻すよう呼び掛けているのがグレートバリントン宣言で、その逆に安易な行動を慎むべきで制御が必要だと主張しているのがジョン・スノー覚書というわけです。真っ向から対立する二つの団体が生まれ、本来一致団結するはずの科学者や医学者で意見が分かれてしまっているのです。

単純な二項対立は危険

 私見を述べればこのような二項対立は危険です。なぜなら、医学というのはそんなにクリアカットに考えられるものではないからです。実際、双方の言い分をよく読むと、考え方は必ずしも100%対立しているわけではありません。グレートバリントン宣言は、高齢者や障害者には何らかの制御が必要であることを強調していますし、ジョン・スノー覚書も、経済・社会活動の制限で生じる問題を無視しているわけではありません。両者は互いの意見に耳を傾けるべきであり、極端な考え(思想と言ってもいいと思います)に走ってはいけません。

 けれども、二項対立は非常に分かりやすく、人々の関心を引きやすいですから、おそらくこれから一部のメディアやSNSでは「グレートバリントン宣言派」と「ジョン・スノー覚書派」の対立をあおるような主張が増えるでしょう。経済、社会、政治にも影響を与えますからますます対立が深くなるに違いありません。トランプ米大統領はグレートバリントン宣言を好意的にとらえているという話も聞きます。このような事情もあるために、私自身はどちらのサイトにも署名をせず、どちらからも距離を置くつもりです。

 ところで、グレートバリントン宣言は「全集団が最終的に集団免疫を獲得するのは周知のこと」で「これはワクチンで補えるが、ワクチンに頼るのではない」と主張しています。これは事実なのでしょうか。

推定感染率66%のブラジル・マナウス市

 現在、世界で集団免疫を獲得したかもしれない地域が一つあります。ブラジル・アマゾナス州の州都マナウス市です。査読前の医学論文を集めたサイト「medRxiv」に9月21日、「アマゾンで新型コロナの集団免疫(COVID-19 herd immunity in the Brazilian Amazon)」というタイトルの査読前論文が掲載されました。この論文によると、マナウスでは、新型コロナウイルスの感染者が3~4月に急増し、5月から9月にかけてゆっくりと減少しました。6月に測定した地域住民の抗体陽性率は51.8%に達しており、最終的には人口の66%が感染したと推定されました。

 一般に、その地域住民の4~6割が免疫を持てばその感染症に対して集団免疫が成立すると考えられています。したがって、マナウスでは「新型コロナの集団免疫が獲得された」と言えるかもしれません。では、他の地域もマナウスを見習うべきなのでしょうか。

人口218万人で死者4000人近く

 科学誌「Science News」は、9月24日付のニュース記事でマナウス市の状況を取り上げました。この記事はmedRxivの論文に触れています。それによれば、マナウスの新型コロナウイルスによる死亡者は4000人近いそうです。マナウスの人口は約218万人といわれていますから、人口100万人あたりの死亡者はなんと2000人近くになります。先進国のなかでは際立って死亡者が多い米国でさえ、人口100万人あたりの死亡者は694人です(ちなみにブラジル全体では同737人。いずれもWorldometerのサイト10月25日現在)。特筆すべきことはまだあります。「Science News」によれば、マナウスでは、60歳を超える人は人口のわずか6%なのです。

 現在の日本で、60歳以上の人は人口の約35%を占めます。もしも、日本でマナウスと同じことが起こったとすればいったいどれくらいの人が犠牲になるでしょう。こうした事情があるため、上述の「medRxiv」の論文について報じるときには、「Science News」も含めて(おそらく)どのメディアも「マナウスに習え」とは言っていません。

 興味深いことはまだあります。「Science News」は、medRxivの論文に記載されたデータとして、同じブラジル国内でもサンパウロ州の州都サンパウロ市では、住民の抗体陽性率は14%にも達していないと指摘しました。サンパウロもマナウスも、住民の「社会的距離(ソーシャル・ディスタンシング)」の確保のしかたは同程度だったそうです。つまり、同じような条件であったにもかかわらず、サンパウロではマナウスほどには感染者が増えず、集団免疫が獲得されなかったのです。では、なぜマナウスではそれほどまでに抗体陽性率が上昇したのか。この理由はまったく不明です。

屋外のインフルエンザ予防接種会場で市民にワクチンを打つ看護師=ブラジル・サンパウロで2020年6月3日、山本太一撮影
屋外のインフルエンザ予防接種会場で市民にワクチンを打つ看護師=ブラジル・サンパウロで2020年6月3日、山本太一撮影

「自分はどうすべきか」を自分で考えよう

 グレートバリントン宣言派の人たち、つまり若者の行動制限をなくし社会を活発化させて集団免疫を獲得させるべきだと考えている人には、この「マナウスの悲劇」について考えてもらいたいと思います。一方、ジョン・スノー覚書派の人たちにはグレートバリントン宣言を単に非難するのではなく、科学者どうしが協力して、共通の敵である新型コロナウイルスへの対策を考えてほしいと思います。

 最後に重要なことを追加しておきます。社会が集団免疫を獲得したとしても、それはあなたが感染せず重症化しないことを意味するわけではありません。公衆衛生学者は社会全体を考えているのであってあなたのことを見てはいません。たとえ集団免疫が獲得され、新型コロナが99%の人には脅威でない存在になったとしても、あなたやあなたにとって大切な人が残りの1%に入ってしまえば元も子もありません。学者や医者が何を言おうが、自分自身と大切な人を守るにはどうすればいいかをあなた自身が考え続けることが大切なのです。

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谷口恭

太融寺町谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト 無料メルマガ<谷口恭の「その質問にホンネで答えます」>を配信中。