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何のために働くのか~障害者雇用に学ぶ生きがい

野澤和弘・植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員
にぎわう街=東京都新宿区で2020年11月23日、宮間俊樹撮影
にぎわう街=東京都新宿区で2020年11月23日、宮間俊樹撮影

 都市部を中心に独居の高齢者は増えていく。結婚をせず単身での生活を続ける若者も多い。かつての「一億総中流」と言われた牧歌的な面影はとうに消えうせ、格差の拡大とともに底辺層が急速な広がりを見せている。

 人工知能(AI)の進化と普及によって人間の仕事が奪われるようになれば、中流から転落していく人はさらに増えるにちがいない。新型コロナウイルスは人々の働き方やライフスタイルを変え、産業構造も変わっていくだろう。格差や孤立はさらに深まっていくかもしれない。

 暗い森の中に迷い込み、手探りで希望を探しているのが今の私たちだ。

 この国が繁栄を極めていたころから底辺に置き去りにされてきた人々がいる。何もないところからの暗中模索がユニークな考えを生み、独自の制度となって彼らを支えてきた。

 たとえば、知的障害・精神障害の人々の雇用である。

 与えられず、関心も向けられず、置き去りにされてきた人々が、自らの存在意義や生きがいを見つけようと、時代の波間をはうようにして進んできた。その取り組みのなかには私たちが学ぶべきものがある。

産業構造の変化と障害者

 農業や水産業などの第1次産業、自営業を生業にしている人が多数だった時代、親子三代が一つの家で暮らし、そこに親族なども加わる「職住一体」の風景はありふれたものだった。

 高齢になってもできることをやりながら、少しずつ後継ぎの子どもへ家督を譲っていく。いわゆる「定年」はなく、定年後の生活保障である年金も不要だった。子や孫の世話は家族内で行うので、介護や保育サービスも必要なかった。

 障害のある人は家族総出の労働風景の中に溶け込んでおり、何かしらの役割を得ながら生活が守られていた。農業などの第1次産業は一年を通しての仕事内容がバラエティーに富んでおり、それぞれの加齢や心身のハンディに応じた作業があった。

 製造業が中心の時代になると、企業や下請け工場で雇用される人が増え、大家族は解体されて核家族が主流になっていった。職住が分離され、親族間や近隣の結びつきも弱くなった。

 軽度の知的障害者などは、工場で単純作業を反復して行う労働力として吸収されるようになった。しかし、そうした仕事に不向きな障害者は「働く」ということから排除され、福祉を受ける対象として位置づけられるようになった。

 重度の障害者を収容する入所施設や精神病院が大量に建設されるようになったのは、そうした時代背景があってのことだ。

 単純な部品の組み立てや農作業を障害者の日課として取り入れる施設もあったが、廉価な下請け作業がほとんどで、生活費を稼ぐ「労働」というよりも、社会復帰のための「更生」のように意味付けられていたと言える。

 大規模施設ではなく、町の中の小規模な作業所が各地につくられるようになってからも、そこに通う障害者は部品の組み立てをしたり、クッキーを焼いたり、空き缶を集めたりという作業が多かった。

貧しい時代の小規模作業所

 名古屋市港区で初めてできた小規模作業所を取材したのは1980年代半ばごろだ。古い民家を借りて、重度の知的障害者が単純な軽作業をして日中を過ごしていた。養護学校を卒業しても行き場がない障害児の親たちが建てた作業所という。

 生徒の苦境に心を痛めた先生は親たちに泣きつかれて学校を退職し、その小規模作業所の運営を任されることになった。行政からの補助金もわずかなもので、先生は月に7万円程度しか得られなかった。親たちが米や野菜などの食材を定期的に持ってきて、先生は糊口(ここう)をしのいでいた。

 「美談」として新聞記事にしたが、先生のこれからの人生を思うと暗い気持ちにならざるを得なかった。支援者側の犠牲の上にかろうじて成り立っている障害者の地域生活の未来には漠然とした不安を覚えたものだ。

 この小規模作業所は決して特別なものではなく、当時の障害者作業所の多くはこのような状況だった。行政からのわずかばかりの補助金、家族や知り合いからの寄付、バザーの収益などで細々と運営していた。

 そうした作業所で働く職員といえば、身内に障害者がいる人、親たちに泣きつかれた先生、学生運動に身を投じた経歴があり一般企業で働くことを嫌悪する人など、何か特別な事情のある人が多かった。右肩上がりの戦後の日本社会から取り残されていた障害者の福祉はそのような人々によって支えられていた。

 そのころの障害者の賃金はほとんどゼロに等しかった。小規模作業所の所長ですら7万円程度なのである。元請けから支払われる対価はわずかなもので、それも作業所の運営費に充てられ、障害者への賃金に回すだけの余裕はなかった。

 一方、一定以上の規模の授産施設では、助成機関から厨房(ちゅうぼう)設備や印刷機械などの購入費を得て本格的な生産活動に乗り出すところも出てきた。パンを焼いて市役所などで販売したり、企業や団体から印刷を請け負ったり、段ボールの組み立て加工を大企業から請け負ったりして、一般市場の片隅にではあるが少しずつ進出するようになった。

 そこで働く障害者には最低賃金には至らないが、数万円程度の「工賃」が支払われるところも徐々に増えてきた。

企業で働く障害者が増えている

 福祉ではなく、民間企業などへの就労について国は障害者自立支援法(2006年施行)から本格的に力を入れるようになった。それまでは、オフィスで働く身体障害の人などを除いては、低賃金の仕事か、「3K(きつい・汚い・危険)職場」と揶揄(やゆ)される劣悪な環境や労働条件で働く障害者が多かった。

 障害者自立支援法で就労を軸にした政策が展開されるようになり、大企業は主に特例子会社、中小企業は直接雇用するか「就労継続支援A型」の事業所を設立して障害者を積極的に雇うようになった。

 法定雇用率も特例子会社も日本独特の制度だ。国が定めた雇用率を達成できないと、企業は納付金を払わなければならない。納付金を払ったから義務が免除されるわけではなく、改善の努力がないとみなされると、企業名を公表され社会的制裁を受けることもある。

 一方、雇用率を達成している企業にはさまざまな補助金や助成金の制度がある。ムチとアメによって企業の障害者雇用は伸びてきた。

 段差を解消したり、車いすトイレを設置したりという環境の改善によって一般従業員と同等の労働が期待される身体障害者と違い、知的障害者や精神障害者は個々の特性に合ったきめ細かい合理的配慮を行い、雇用した後もずっとフォローしていくことが求められる。それでも難易度の高い知的な仕事には不向きな面もある。

 そこで、障害者雇用を専門にした特例子会社を開設し、そこで一般従業員とは異なる労働内容や賃金体系を用意して障害者を雇うことも制度化された。それによって知的・精神障害者の雇用は近年、急速に伸びている。これも日本独特の制度である。

 障害者自立支援法が施行されたころ、東証1部上場企業にアンケート調査をしたことがある。

 すでに多数の企業が知的障害者の雇用を進めており、「積極的に雇用したい」という意欲を表している企業が全体の約3割、「雇用する予定がある」と答えた企業も3割近くに上った。おそらく現在同じ調査をすれば、もっと多くの企業が知的障害者の雇用に前向きと答えるだろう。

 民間企業における障害者の法定雇用率が13年に1.8%から2.0%に引き上げられたころから、都市部を中心に働ける障害者が足りない状況になり、企業はそれまであまりなじみのなかった知的障害や精神障害のある人の雇用にも本格的に乗り出すようになった。

 東京など都市部のハローワークでは身体障害者の求職申込書はほとんどなく、企業は知的障害者や精神障害者を雇用しないと法定雇用率を達成できない状態が続いている。精神障害者には知的な能力が高い人も珍しくないが、心身の調子の波が激しく、「働ける日と働けない日がある」などと言われることがある。これに対して、知的障害者は「できることとできないことがはっきりしているが、毎日継続的に出勤できる」と言われる。企業にとっては知的障害者の方が労務管理をしやすい面があり、近年は知的障害者を求める企業が増えている。

 重度の知的障害者は雇用率にダブルカウント(1人雇用すると2人分にカウント)されることもあって、彼らに適した仕事を企業側が用意して職場に迎え入れるケースも多くなった。「3K職場」ではなく、都心のオフィスビルの中でホワイトカラーの正社員に交じって事務補助的な仕事をする人も増えている。

職場が明るくなる

 すでに知的障害者をたくさん雇用している実績のある企業ほど「もっと雇いたい」という意欲が強く、雇った経験のない企業は「雇用する予定はない」と答える傾向が強いこともアンケート調査から浮かび上がった。

 「知的障害者が働くのは無理だろう」という先入観があっても、経験してみると「意外に働ける」という実感が得られるのだろう。

 「うちのようなオフィスワーク中心の企業、しかも本社にはエリートばかりが集まっている。そこで知的能力にハンディのある人を雇用するのは無理だと思っていた」とは、ある大企業の経営者の話だ。ハローワークの指導が厳しく、どうしても雇用率を達成しなければならなくなり、試行的に知的障害者を数人受け入れてみた。

 「出勤してきた障害者が私の顔を見るなり、『おはようございます、社長さん。今日もがんばって仕事をしてくださいね!』とあいさつしてきた。がんばらなきゃいけないのは君の方だろう……と思ったが、あまりにうれしそうな顔をしているので、言葉をのみ込んだ」

 それから、経営者は障害者が働いているところを見に行くようにした。張り切っている気持ちを体全体で表し、明るい声であいさつをしている。職場全体が明るくなってきたという。

 「競争を強いられ効率化を求められていろんなものをそぎ落としてきたが、彼らの働きぶりを見ていると、自分たちが大事なものをなくしてしまったような気がしてきた」

 ストレスの多い職場で働き続けてきた一般社員にとって、知的障害者が職場の雰囲気を和らげ周囲の従業員に良い影響を与えているように感じたという。

 個々の能力や生産性を見ると確かに劣る面はあるが、大きな声で明るくあいさつしたりする勤務態度が職場を明るくし、ほかの社員のやる気を高めることにつながる。これを「マクロ労働生産性改善効果」と名付ける研究者がいる。

 知的障害者を雇用して戦力にしている会社の中には、彼らの特性を職場環境の改善にうまく生かしているところが多い。

 技術の習得が苦手な障害者を育てるノウハウが蓄積され、それが一般社員の育成にもヒントとなっている。理解力や業務の迅速性にハンディのある障害者への工夫や配慮が一般社員にも役立つようになった。一般社員が何気なしに行っている雑務を切り出し、それをまとめて障害者の仕事にすることによって、結果的に一般社員が雑務から解放され、より高度な業務に専念できるようになった。業務の中には非効率や無駄がたくさん潜んでいるが、日常の仕事を続ける…

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植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員

のざわ・かずひろ 1983年早稲田大学法学部卒業、毎日新聞社入社。東京本社社 会部で、いじめ、ひきこもり、児童虐待、障害者虐待などに取り組む。夕刊編集 部長、論説委員などを歴任。現在は一般社団法人スローコミュニケーション代表 として「わかりやすい文章 分かち合う文化」をめざし、障害者や外国人にやさ しい日本語の研究と普及に努める。東京大学「障害者のリアルに迫るゼミ」顧問 (非常勤講師)、上智大学非常勤講師、社会保障審議会障害者部会委員、内閣府 障害者政策委員会委員なども。著書に「スローコミュニケーション」(スローコ ミュニケーション出版)、「障害者のリアル×東大生のリアル」「なんとなくは、 生きられない。」「条例のある街」(ぶどう社)、「あの夜、君が泣いたわけ」 (中央法規)、「わかりやすさの本質」(NHK出版)など。