
新型コロナウイルスで動けないつらさを経験した今だからこそわかるはずだ。
人間にとって何よりも耐えがたいのは、自由を奪われることである。
刑罰のほとんどは身体の自由を制限することによって行われる。心身に苦痛を与えるだけではなく、長期間にわたる自由の剥奪はそうした状況に慣れることでしか生きられないようにすることでもある。
人間が人間でなくなり、魂の死を静かにもたらす。それが自由を奪うことの本質だ。
自由を奪われている30万人以上の障害者
悪いことをしたわけでもないのに、たぶん間違いなく自分の意思にはよらず、自由を奪われた場所で暮らしている人々がいる。
入所施設にいる約12万人の知的障害者、精神科病院で社会的入院の状態にあるとされる20万人近くの精神障害者のことである。
その施設や病院の中で、ひもで縛られたり、ミトン型手袋をはめさせられたり、Y字拘束帯や腰ベルトで車いすなどに固定されたり、カギのかかった部屋の中に長時間閉じ込められたりしている人がいる。
そうやって自由を抑制する行為を「身体拘束」と呼ぶ。
本当にやむを得ないのか
施設や病院からすれば、いじめてやろう、虐待してやろう、といった理由で障害者の自由を抑制しているわけではない。
暴れたり職員にかみついたりするのを止めるため、自分で頭を殴ったり手をかんだりする自傷行為を防ぐため、やむを得ず身体拘束をしているのだとされている。
しかし、本当にやむを得ないのだろうか。やむを得なかったとしても、身体拘束のやり方が適切だったのか、過剰ではなかったのかということはあまり顧みられない。そもそもなぜ暴れたりかみついたりするのか、ということも考えられていない。
ひょっとしたら、自由を制限されていることにストレスを感じて暴れるのかもしれない。そんなことに気づかない職員に対していらだっているのではないか。無理やり体を縛られたり、狭い部屋に閉じ込められたりするから、さらに不安やストレスが高じているのかもしれない。
そうだとしたら、こんなに理不尽なことはない。
悪いことをしたわけでもないのに施設に入れられ、施設側が作り出した原因によって不快や恐怖を感じて声を出し抵抗しているのに、一方的に自分のせいにされて、さらに自由を奪われているのである。
「自由の剥奪」を正当化していいのか
入所施設から知的障害者が出て行ってしまい行方不明になったり事故に遭ったりすることは、時々だがある。家族から施設の管理責任を求めて訴訟が提起され、施設側に賠償命令が下された裁判もある。
施設からすれば、「施錠を怠らず障害者を建物に閉じ込めざるを得ない」と考えたとしてもおかしくはない。そうしなければ裁判を起こされ、責任を問われることがあるためだ。
しかし、障害の特性に関する専門性や人間理解の乏しさを感じさせる例外的な司法判断に過剰に反応し、漫然と続けられる自由の剥奪を正当化していいはずがない。
車いすに縛り、カギのかかった部屋に閉じ込めておけば、事故も起こらず、職員は安心だ。特別なことはしなくていいから楽だし、福祉の専門性など身につけなくても済む。
障害者の人間としての尊厳を深く考えれば珍妙としか思えない司法の「お墨付き」が、福祉現場の怠慢と不作為を助長しているのだとすれば、とても看過できることではない。
3要件を満たさなければ「虐待」
安易な身体拘束の横行について、国も手をこまねいていたわけではない。
2011年に施行された障害者虐待防止法では「正当な理由なく障害者の身体を拘束することは身体的虐待に該当する行為」(第2条7第1項)と定められた。
「正当な理由」とは何かについてはさまざまな議論もあるだろうが、①切迫性、②非代替性、③一時性――の3要件をすべて満たさなければ身体拘束は許されないこととされた。つまり、今すぐに介入しなければ障害者や周囲の人が傷ついてしまう、拘束する以外に方法がない、だらだらと拘束し続けず必要最低限度の拘束にとどめる――という条件である。
さらに厚生労働省のガイドラインでは、行動障害の改善に向けて取り組む中で行う身体拘束は3要件をクリアすれば認めるが、それ以外は認められないとされた。その際も拘束の方法や時間、どのような状況だったのか、拘束される前後の障害者の様子はどうかということも記録に残されなければならない。
18年の障害者福祉サービスの報酬改定では、身体拘束をしながら記録に残さない施設は補助金を減算されるというペナルティーを科されることになった。
こうした厳格な条件と手続きを定めた上で、限定的に身体拘束は認められているのである。それだけ拘束されることの弊害(副作用)が障害者自身に深刻な影響を及ぼすからでもある。
厚生労働省の障害者総合福祉推進事業として行った身体拘束に関する全国調査の結果が20年3月に公表された。
それによると全国6万7000あまりの事業所のうち、身体拘束による補助金の減算を受けたのは81事業所で全体の0.12%に過ぎなかった。減算制度の導入による取り組みや意識等の変化については、「特に変化はない」が44.7%と最も多く、無回答(25.7%)を合わせると7割に上る。
厚労省は「補助金を減らす」というムチを用いた身体拘束の規制に乗り出したものの、現場に与える効果は限定的で、実際に補助金を減らされたところもわずかに過ぎないことが浮かび上がった。
障害者福祉の現場ではそれほど身体拘束が行われておらず、減算を提示されても経営者や職員への心理的効果はそれほどないということなのだろうか。
真の被害者は誰なのか
障害者施設での身体拘束について、なぜ重要な問題として焦点を当てるべきなのかといえば、津久井やまゆり園(相模原市)で元職員だった植松聖死刑囚による大量殺傷事件が起きる前から、同園では慢性的な身体拘束が行われていたからである。
「障害者は人間扱いされていない」と植松死刑囚は同園に勤務していたとき、知人に漏らしている。それが「重度障害者には生きている意味がない」という発想にどうして転化したのか。「障害者は人間扱いされていない」と植松死刑囚の目に映ったやまゆり園の実態がどのようなものだったのか。単純に結びつけてはならないが、障害者の自由を奪う身体拘束と何かしら通じるものがあるかもしれないと思うからである。
人間にとって耐えられない苦痛の一つが自由を奪われることであり、身体拘束は人間らしさをなくしていく恐ろしい行為だ。そこに正当な理由や適切な手続きがなかったとしたら、これほど罪深いことはない。まさに、「人間扱いしていない」に等しいと思う。
不可解な大量殺傷事件の謎を解くカギがそこにあると考えるのは、不自然なことではない。そして、重度障害者が生きることを否定する事件は終わっておらず、私たちは教訓をくみ取れていないとも思う。
なぜなら、多数の障害者に対する身体拘束は、植松死刑囚による事件の後もやまゆり園で延々と続いていたのである。
「被害者」として見られてきた「やまゆり園」
19人の障害者の命が奪われた事件は、16年7月に起きた。現場は文字通り血の海と化し、植松死刑囚によって縛られた職員、目の前で障害者が殺害されるのを目撃した職員らにも大きな傷痕を残した。
事件直後から津久井やまゆり園は、「重度の障害者には生きる意味がない」という特異な思想を持った男に襲撃された「被害者」として見られてきた。福祉業界内からは同情の声が起こり、マスコミも理不尽な被害にあった施設として報道してきた。神奈川県もやまゆり園の一時的な移転や建て替えについて全面的にバックアップする姿勢を見せた。
事件直後に神奈川県が有識者らを招いて組織した検証委員会(石渡和実委員長)の報告では、津久井やまゆり園を運営する社会福祉法人…
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植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員
のざわ・かずひろ 1983年早稲田大学法学部卒業、毎日新聞社入社。東京本社社 会部で、いじめ、ひきこもり、児童虐待、障害者虐待などに取り組む。夕刊編集 部長、論説委員などを歴任。現在は一般社団法人スローコミュニケーション代表 として「わかりやすい文章 分かち合う文化」をめざし、障害者や外国人にやさ しい日本語の研究と普及に努める。東京大学「障害者のリアルに迫るゼミ」顧問 (非常勤講師)、上智大学非常勤講師、社会保障審議会障害者部会委員、内閣府 障害者政策委員会委員なども。著書に「スローコミュニケーション」(スローコ ミュニケーション出版)、「障害者のリアル×東大生のリアル」「なんとなくは、 生きられない。」「条例のある街」(ぶどう社)、「あの夜、君が泣いたわけ」 (中央法規)、「わかりやすさの本質」(NHK出版)など。