令和の幸福論

人間にとって自由とは~「やまゆり園」と身体拘束(下)

野澤和弘・植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員
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相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件で植松聖被告の死刑判決を受け、記者会見する被害者の弟(左奥)=横浜市中区で2020年3月16日、宮間俊樹撮影
相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件で植松聖被告の死刑判決を受け、記者会見する被害者の弟(左奥)=横浜市中区で2020年3月16日、宮間俊樹撮影

ある床屋さんでのこと

 子どものころ床屋さんが苦手だった人は多いだろう。私も耳の周囲や襟足のあたりにバリカンやハサミが当てられると、ギュッと首をすくめては床屋さんを困らせた。

 だから、知的障害や自閉症で散髪が苦手な人が多いのはよくわかる。私の長男も幼いころから散髪には苦労した。

 初めから拒否する床屋さんはいなかった。しかし、大きな声を出して嫌がる長男に手を焼き、ため息を漏らされたりすると、なんだか責められているような気がして、心がすくんでしまう。小学校低学年のころはまだ何とかなったが、体が大きくなり力が強くなっていくに従って、ますます床屋さんをてこずらせるようになった。

 嫌がって顔を振り、体をよじる。ハサミが目にでも入ったら大変だ。私は必死になって長男が動かないように頭を押さえる。こちらは守っているつもりなのだが、長男からすればハサミやバリカンが怖くて暴れているのに、逃げられないように力で押さえつけられるから、余計に怖くなる。そして、もっと強い力で暴れる。私はさらに強い力で押さえざるを得なくなる。長男はさらに恐怖が募り、もっと強い力で暴れる。私はもっともっと強い力で押さえる。

 気がついたときには、わなに掛かった獣のように叫んで暴れる長男を力任せに押さえつけている私がいた。騒ぎを聞いて奥から飛び出してきた床屋さんの奥さんも加わり、大人2人で長男を押さえたこともあった。

 ある夏の午後。大声で暴れる長男を押さえていた私は頭の中が真っ白になった。可愛がって育ててきた子が野獣に変わったような気がした。その瞬間。バーン!という衝撃とともに床屋さんはハサミを持ったまま吹き飛ばされた。長男は立ち上がって声を出してジャンプしている。ふと見ると、大きな重い椅子が横倒しになっていた。

 床屋さんのハサミやバリカンが怖い長男に対して、力で押さえるという「身体拘束」を繰り返した結果、私は長男の行動障害を誘発し強化してしまったのである。

 行動障害は以前から、障害者福祉の現場で容易に解決策が見つからない困難な課題として扱われてきた。自分の頭をこぶしで殴ったり、指をかみ続けたりする「自傷行為」、家族や職員らをたたいたり、かみついたりする「他害行為」、暴れたり奇声を発したりする「パニック」、布や紙などを食べてしまう「異食」。そんな行動障害を起こす障害者は入所施設か精神科病院の閉鎖病棟に送り込むしかないと思われていた。そこで身体拘束をされるのも、命を守るためには仕方がないと思われていた。

 私だって暴れる長男を力ずくで押さえることなどしたくはなかった。しかし、そうしないとハサミで顔や目を傷つけかねないから、仕方なく押さえていたのだ。ほかに方法があれば、そんなことはしたくなかった。

 しかし、正直に言うとそれはウソだ。他に方法がないのではなく、他の方法を探していなかったのだ。私が忙しくてそんな時間がなかったからである。面倒くさかったからである。誰かに頭を下げて相談することが嫌だったからである。すべて私の勝手な都合や言い訳だった。力で押さえれば、なんとかその場をしのげたからそうしていたのである。

 「その場しのぎ」「力ずく」が行動障害を引き起こす大きな要因になっている。その場はしのげても、本質的な解決にならない。それだけでなく、行動障害をエスカレートさせているのだ。

もの言わない障害者に押しつけられる責任

 行動障害の多くは障害者本人の問題ではなく、環境や支援のあり方の方に問題がある。障害者がものを言わないから許されているだけで、ものを言わない障害者の方に責任が押しつけられているのである。

 私の場合、「その場しのぎ」「力ずく」のやり方が破綻したのをきっかけに、福祉施設の経営者に相談したところ、ある床屋さんを紹介された。

 商店街の外れにある小さな床屋さんだった。大きな目で言葉の荒い昔かたぎのおやじさんが1人でやっていた。警戒している長男をなだめてなんとか鏡の前の椅子に座らせたのだが、ハサミが耳の周囲に近づくとやはり嫌がって逃げようとする。

 「あぶねえじゃねえか」

 おやじさんの声に促されるように私が長男の頭を押さえようとすると、おやじさんはハサミを持つ手を下ろした。

 「ここは俺がやるから、あんたはそっちで座っていればいいよ」

 そう言われてわたしは待合のソファに座った。もう何でも言うことを聞くしかない。首を伸ばして、長男の姿が映る鏡を見守った。

 「だから、動くなって言ってるだろ」「おっと、あぶねえ」「わかった、もうハサミは使わねえよ」……。小さな声で長男に話しかけながら、おやじさんはハサミを隠したり、そっと出して髪を切ったりしている。

 そのうち声も物音もしなくなった。どうなっているのだろうと鏡を見ると、おやじさんは眉間(みけん)にしわを寄せてボーッと鏡の前で立っている。つられたように長男もボーッとしている。

 「なんだか今日は忙しそうだな。また後で来るわ」

 いつもとは違う空気を察したのか、なじみ客がドアを開けて出ていった。私はなんだか居たたまれなくなったが、ここはおやじさんに任せるしかない。

 そのうち、シャカシャカ……というハサミの音がして、それを嫌がる長男の声が聞こえた。そして、また沈黙。それが何度も繰り返される。1時間はとうに過ぎたころだった。

 「おー、できたじゃねえか。終わったよ」

 笑いながらおやじさんが長男をほめている。きれいに刈り上げられた髪をなでられ、長男もホッとした顔をしている。

無理やりに力で押さえられるから怖くなって暴れる。時間をかけてリラックスするのを待ち、少し切っては、また待つ。それを何度も繰り返しながら、なんとか全体の散髪ができたのだった。

 長男の横顔を見ていたら、なんだか切なくなってきた。一番苦しんでいたのは長男だったのだ。自分が暴れるために床屋さんをどれだけ困らせているのか、父親をどんなに恥ずかしくさせているのか。そんなことはよくわかっていて、それでもハサミやバリカンの感覚が我慢できなくて暴れてしまう。力で押さえられるとますます混乱し、恐怖で声を上げてしまう。それをこの床屋のおやじさんは救い出してくれた。そんなことを思っているような穏やかな横顔だった。

 救世主となったおやじさんは、中学を卒業してすぐに床屋の丁稚奉公(でっちぼうこう)に入ったという。福祉や心理学の勉強はおろか、本などこれっぽっちも読みそうにない。どうしてこんな名人芸のような技を身につけたのか不思議だった。しかし、考えてみれば、いつどんな客がやって来るかわからず、素性のわからない客に対しても顔に刃物を当てるのが床屋さんの仕事である。毎日体を張り、神経を研ぎ澄ませて仕事をしてきた。そうして積み重ねた経験知が自閉症の長男に対しても通用するということだろうか。

 それから定期的にその床屋さんに通うようになった。長男がハサミを嫌がって暴れることは見る見るうちに減っていった。そのうち、ハサミが耳の辺りの髪を切るときには自分の指で耳たぶを折り、ハサミの感覚を遮断するようになった。

 うまくいったときには、「ご褒美だよ」と言ってチョコレートをくれた。長男はうれしそうな顔で食べている。<ちょっと我慢すればこんなご褒美が待っているのか>。そんな声が聞こえてきそうだった。

 顔にシェービングクリームを塗りつけ、カミソリでひげをそられても平気になった。洗髪するときも耳の周囲に触れられるのを嫌がったのに、今では普通にできるようになった。

 教育や福祉の「専門性」とはいったい何なのだろう。大学や専門学校で教えられた知識は、現実に行動障害を起こす障害者に対してどれだけ通用するのだろうか。通用しないどころか、行動障害を引き起こしたりエスカレートさせたりしているのだとすれば、いったい誰のための教育であり福祉なのだろうか。

かみつく理由

 ざわざわした環境が苦手という障害者がいる。聴覚が過敏で小さな音でも苦痛を感じるという。水道水の塩素濃度に過敏に反応する人もいる。逆に、痛みに対する感覚が鈍く、自分の頭をたたいたり、壁にぶつけたり、自分の指をかんで皮が破れ、血が出ても痛みを感じないという障害者もいる。

 自閉症という発達障害の人に多く、そうした「感覚過敏」が自傷や他害などの行動障害を引き起こしたり、逆に自傷行為をしながら痛みを感じないために大けがをしたりすることがある。

 どうして彼らはそのようなことをするのかがわからず、学校や福祉施設では「手の掛かるやっかいな障害者」と見られてきた。しかし、そうした障害者の行動障害は、もしかしたら学校や福祉施設の環境や指導方法に何らかの問題があって起きているのではないか。というようなことはあまり顧みられることがなかった。

 ある自閉症の女児が下足場で多くの子どもたちがうるさくしていたために混乱して奇声を発し、隣にいた子にかみついてしまったとしよう。そんな時、その場にいる職員はどのような対応をするだろうか。

 「かみつく」という危険な行為に対して、すぐにそれをやめさせ、かみつかれた子を保護するだろう。「どうしてそんな乱暴なことするの!」「○○ちゃんは痛いと泣いているじゃないの」。かみついた女児をきつくしかりつけたりはしないだろうか。

 だが、しかられたくらいで反省する子であれば、初めからかみついたりはしない。感情的にしかってその子にストレスを与え、いたずらに自己否定感を植え付けるのではなく、福祉の専門職員であればもっと科学的に考えるべきだと思う。

 ざわざわした環境が苦手なくらいで普通はかみついたりはしない。どうしてその女児がかみついたのかといえば、「感覚過敏」という特性があるからだ。そして、職員や周囲の大人にそのことを伝えられないコミュニケーションの困難性もある。もう少しがまんすれば、ざわざわするストレスの多い場面がなくなるという見通しがつかない、つまり想像力の困難性があるだろう。こうした先天的な障害特性がかみつく行為を生んでいるのである。

 しかし、それだけではない。いくら感覚過敏があっても、それを刺激する環境がなければかみつく行為は生まれない。そして、その場に適切に対処できる職員がいればかみつく行為は未然に防ぐことができるかもしれない。

 では、「ざわざわ騒がしい環境」や「適切に対処できる職員がいない」のは、その女児のせいだろうか。

 そうではない。施設や職員の側の問題である。それなのに、どうしてかみつく行為を女児のせいにばかりするのだろうか。

 感覚過敏、コミュニケーションの障害、想像力の困難性というのは先天的な障害特性であり、容易に改善することはできない。感覚過敏を治せる薬などいまだに開発されてはいない。

 その一方、「ざわざわ騒がしい環境」は施設側の工夫でいくらでも改善できる。この女児をそうした環境から遠ざけることはすぐにできる。また、職員が行動障害などに関する研修を受ければ、いくらでも専門知識や対処方法を身につけることができるはずだ。

 つまり、施設や職員はすぐに改善できることが自分たちの目の前にありながら、そこには目を向けず、容易には改善できない先天的な障害特性にばかり目を向け、手を突っ込んではいないだろうか。そして、障害児をますます混乱させ行動障害をエスカレートさせておきながら、「障害者の支援は大変だ」と嘆いたり愚痴をこぼしたりしているのではないか。

 障害者はたまったものではない。そんなことが許されているのは、障害者が何も言わないからだ。行動障害を誰が引き起こしているのか、何がエスカレートさせているのかが、にわかにはわからないからだ。

行動障害はなぜ生まれるのか

 こうした自傷行為や他害行為、奇声を発してパニックになるといった行動障害を起こす障害者の親たちから聞き取り調査をした研究がある。その子が生まれてからの状況を思い出してもらい、いつごろからどんなきっかけで行動障害を起こすようになったのかを記録したのだ。

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野澤和弘

植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員

のざわ・かずひろ 1983年早稲田大学法学部卒業、毎日新聞社入社。東京本社社 会部で、いじめ、ひきこもり、児童虐待、障害者虐待などに取り組む。夕刊編集 部長、論説委員などを歴任。現在は一般社団法人スローコミュニケーション代表 として「わかりやすい文章 分かち合う文化」をめざし、障害者や外国人にやさ しい日本語の研究と普及に努める。東京大学「障害者のリアルに迫るゼミ」顧問 (非常勤講師)、上智大学非常勤講師、社会保障審議会障害者部会委員、内閣府 障害者政策委員会委員なども。著書に「スローコミュニケーション」(スローコ ミュニケーション出版)、「障害者のリアル×東大生のリアル」「なんとなくは、 生きられない。」「条例のある街」(ぶどう社)、「あの夜、君が泣いたわけ」 (中央法規)、「わかりやすさの本質」(NHK出版)など。