令和の幸福論

漫画VSジャーナリズム~新聞が伝えないこと

野澤和弘・植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員
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「だいすき!! ゆずの子育て日記」愛本みずほ著・講談社
「だいすき!! ゆずの子育て日記」愛本みずほ著・講談社

 暗い森の中を手探りで歩いているようなものだ。光が差したときに自分たちが間違ったところを歩いていることにようやく気づく。

 アメリカの老舗新聞社を舞台にした映画で、記者が独自に取材源を開拓しながら進める調査報道の難しさについて、編集幹部が記者たちに語るシーンがある。

 間違ってばかりで立ちすくむことが多かった私自身の35年間の記者生活を振り返っても、納得できることが多い。目の前で大きな声を上げている人に気を取られ、ほかに大事なものがあることに気がつかない。出口を見つけてたどり着いたところで、何かを森の中に置き忘れてきたことを思い出す。

 自分自身の資質の問題なのだろうが、新聞やジャーナリズムの特性によるところもあるように思う。瞬発的に大きな力を発揮することはできても、小さなものや長い目で見なければわからないものを丁寧に深く掘り下げていくことが、新聞のようなメディアは苦手なのかもしれない。

 あの時の記事は間違っていなかったのだろうか、何か伝えなければならないものがあったのではないか。報道の現場を離れた今になっても、そんな思いがふと頭をよぎることがある。

 昨年末、漫画家の愛本みずほさんと対談したときがそうだった。

漫画「だいすき!!」が人気を得た背景

 「だいすき!! ゆずの子育て日記」という愛本さんの作品は、2005年から「BE・LOVE」(講談社)というコミック誌で連載されて人気を集めた。テレビドラマにもなった。日本の漫画が人気のタイでも翻訳されて出版された。最近になってからも再放送されたり、DVDが販売されたりして人気の根強さを見せている。

 障害者を主人公にした映画やテレビドラマは日本でも海外でもたくさん作られているが、知的障害の女性が主人公で、妊娠と出産、子育てという私的な問題を取り上げた異色の漫画なのである。

 主人公の福原柚子は軽度の知的障害があり、小規模作業所に通っている。好きになった障害者仲間の男性との間に子どもができるが、出産前に相手の男性は交通事故で亡くなる。生まれた子は「ひまわり」と名付けられ、障害のある母が家族や友人や福祉職員たちに守られながら育てていくという物語だ。

 「だいすき!!」が連載されていたころ、私は担当編集者を通して何度か愛本さんと会い、漫画の内容や愛本さんの取材先についてアドバイスをした。TBSがテレビドラマにしたときには、プロデューサーに頼まれて脚本の監修をした。障害者の恋愛や子育てというデリケートな題材を扱うだけに、間違いや誤解を与える表現があると視聴者から批判が寄せられることが心配されたからである。

 それまで障害者を主人公にしたドラマといえば、あまり下調べをせず障害や福祉に関する基本的な知識や情報のないまま、視聴者の涙を誘うことばかり狙ったものや、虐待をテーマに刺激的な内容をウリにするようなものが多かった。それに比べると、「だいすき!!」の制作チームは知的障害のある人や家族、支援者らに何度も会っては、彼らの意見を番組に取り入れていた。数人の知的障害者がエキストラでドラマに出演もした。

 原作者の愛本さんは、各地の障害者や福祉現場を訪ねては丹念に取材していた。表現にリアリティーをもたらすだけではなく、障害のある人が子どもを産み育てるということを通して、人間の幸福とは何かを深く追究していたように感じた。そうした作者のまなざしの柔らかさや深さが多くの読者の心を動かしたのだと思う。

 連載が始まったのは05年2月で、障害者自立支援法(現・障害者総合支援法)が国会で成立した年に当たる。それまでは入所施設偏重の政策が続いており、地域で障害者が暮らすための福祉サービスはあまり見るべきものがなかった。

 障害者自立支援法は、利用者の1割自己負担を導入しようとしたことから大きな批判を招いたが、国の予算措置の方法を変えたことで、その後の障害者福祉を大きく前進させた。地域で暮らすための福祉サービスを当初の予算の範囲内に収める「裁量的経費」から、必要なだけ確保する「義務的経費」に変えたのである。

 それによって障害者福祉の予算は毎年2ケタの伸びを続けることになり、同法施行後の15年間で約4倍にまで増えた。増加した分のほとんどは地域福祉に注がれた。今ではグループホームで暮らす障害者は14万人を超え、入所施設で暮らす知的障害者(12万人)をしのぐほどになった。

 老舗の社会福祉法人が大きな入所施設を構え、業界で幅を利かせているのは今も変わらないが、それに負けないくらい20~40代のリーダーたちが新たにNPOや社会福祉法人を立ち上げ、それぞれの地域にある特有の産業を継承したり伝統的な建築物を再利用したりして、ユニークな事業を展開するようになった。

 障害者虐待防止法、障害者差別解消法が制定され、国連の障害者権利条約が批准されるなど、権利擁護の面でも国際標準に近づいてきた。

「ロック、恋愛、子育てを語ろう」

 「だいすき!!」はそのような時代を背景にしている。知的障害のある主人公が娘を産み育てる物語は、特別に劇的なドラマや謎解きがあるわけではないが、日本の障害者福祉にとって多くの示唆に富んだ内容が包含されている。

 愛本さんと私の対談は、…

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野澤和弘

植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員

のざわ・かずひろ 1983年早稲田大学法学部卒業、毎日新聞社入社。東京本社社 会部で、いじめ、ひきこもり、児童虐待、障害者虐待などに取り組む。夕刊編集 部長、論説委員などを歴任。現在は一般社団法人スローコミュニケーション代表 として「わかりやすい文章 分かち合う文化」をめざし、障害者や外国人にやさ しい日本語の研究と普及に努める。東京大学「障害者のリアルに迫るゼミ」顧問 (非常勤講師)、上智大学非常勤講師、社会保障審議会障害者部会委員、内閣府 障害者政策委員会委員なども。著書に「スローコミュニケーション」(スローコ ミュニケーション出版)、「障害者のリアル×東大生のリアル」「なんとなくは、 生きられない。」「条例のある街」(ぶどう社)、「あの夜、君が泣いたわけ」 (中央法規)、「わかりやすさの本質」(NHK出版)など。