
今年の3月で東京都立松沢病院院長を定年退官した精神科医の斎藤正彦です。現在は、一人の精神科医として、松沢病院のコロナ病棟と内科合併症病棟の病棟医をしています。専門は、老年精神医学と司法精神医学ですが、松沢病院で院長を務めていた9年間は、都立病院の長として自分の専門とは離れて精神医療、行政にかかわるさまざまな活動に取り組んできました。
本連載では、老年精神科医としての研究・臨床の話を軸に、松沢病院の院長として経験した社会現象も絡め、超高齢社会をいかに生き抜くかについて考えていきたいと思います。
初回は、私の自己紹介とともに、「ぼけ」という文化社会的言葉が、「痴呆症」、2004年以降は厚生労働省の呼称変更により「認知症」と呼ばれる医学概念となり、通常の医療に組み込まれていく、「認知症の医療化」が始まるまでを振り返ります。
職業人としての基礎を作った時代
私が生まれたのは1952年、サンフランシスコ講和条約の年、第二次世界大戦後に連合軍に占領されていた日本が独立した年です。もちろん、生まれたばかりの私がそうした社会情勢を記憶しているわけではありません。
しかし、物心ついたころでも、繁華街では歩道に敷いたむしろの上に座った傷痍(しょうい)軍人が、ハーモニカやアコーディオンでセンチメンタルな曲を奏でながら物乞いをする姿を目にするのは珍しくありませんでした。周りの大人たちは、戦争から命からがら帰還し、あるいは空襲の中、子どもを抱えて逃げ惑った実体験のある人たちでした。
現在、戦争を記憶する人が高齢になり、「戦争体験を語り継ぐ」ことの重要性が強調されています。しかし、近年の終戦記念日で語られる戦争体験は、記憶の定かでない幼年時代の経験に、戦後の社会状況やそれぞれの立場によって無意識のうちに脚色され、色付けされた経験談です。
一方、私が子どものころ、戦争体験は気軽に人に話すようなことではなく、まして、「自分が戦地で何をしたかを次の世代に語り継ぐべきだ」と訴える人はいなかったように思います。父は、陸軍の兵隊として出征し、輸送船が沈められて米軍の捕虜となりましたが、私に語った戦争体験は、沈没した船の破片につかまって一昼夜波間を迷い、危ういところで米軍の船に救助された時に始まり、捕虜収容所での生活で終わります。
船が沈む前、父は、各地で転戦していたはずです。しかし、その間、どこで何をしていたのかを語りませんでした。戦争を実体験せざるを得なかった私の両親のような世代、社会階層の人々にとって、戦争は語り継ぐにはあまりに重い体験であり、それぞれが、自分の心の奥に押し込め、ふたをして忘れ去る以外対処のしようがない経験だったのではないでしょうか。私たちがいま直面する外交問題、政治問題の少なからぬ部分が、本当の戦争の傷痕をしっかり総括しないまま、だらだらと時が過ぎていった結果だと思っています。
私が成長し、職業人としての基礎を作った時代は、52年から90年代初めまで、日本が奇跡の経済復興を遂げた道程とぴったり重なっています。60年のローマ、64年の東京、72年のミュンヘンの各オリンピックなどを経て、日本は、他の第二次世界大戦敗戦国とともに、名実とも国際社会に復帰しました。
64年の東京オリンピックで、悪臭のするどぶ川だった隅田川に魚が戻り、日本橋の上に首都高速が走り、新幹線も走って東京の町が一変するのを目の当たりにしました。6年後の70年に開かれた大阪万博では、日本中から大勢の人が大阪・千里丘陵に押し寄せました。オリンピック、万博の熱狂は、敗戦で焼け野原になった日本が、その後20年ほどの間に、世界の経済大国と呼ばれるまでに上り詰める大躍進のスタートを告げる号砲のようでした。
私が東京大学を卒業して医師となったのは、大阪万博からさらに10年が過ぎた80年。これから90年に向かう10年間、新聞で「右肩上がり」という言葉を見ない日はないほどで、GDPは上がるもの、給料は増えるもの、暮らしはどんどん良くなるものと誰もが思っていました。
79年に米ハーバード大学のエズラ・ボーゲル教授が出版した「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は、著者が狙ったアメリカの経済人ではなく、多くの日本人に読まれました。そして、この書物が日本のベストセラーになったころ、日本人の多くが“ジャパン・イズ・ナンバーワン”という全く根拠のない幻想に、酔っていたのです。
こうして90年までに、日本の経済は絶頂期を迎えます。それはまた、あまりに早い没落の始まりでもありました。91年、不動産バブルが崩壊、それ以降の30年、日本経済は長期低落傾向を抜け出せぬまま現在に至っています。結局、90年前後の絶頂期にあっても、日本という国は「張り子の虎」にすぎなかったのではないでしょうか。
「現実の社会で持続できない理想は、理想ではない」
大学卒業後、私が入局したのは、母校の精神医学教室です。当時は、医学部を卒業すると同時に入局する医局を決めるのが一般的でした。いくつもの診療科の中から精神科を選んだという意識はまるでなく、国文学や社会科学に関心が高かったので、自然に精神科医になったとしか言いようがありません。
82年に松沢病院の精神科医員になり、その後の医師人生を決定したと言ってもよい、素晴らしい指導者に出会い、さまざまなことを学びました。同時に、日本の精神医療の現状を初めて知ることになったのです。
卒後2年目の私が、松沢病院で初めて受け持った女子慢性病棟には40人を超える患者さんがいました。精神医療だけではなく、軽度な内科疾患や外科処置についても、この人たちに提供する医療のほとんどすべてを一人で仕切らなければなりませんでした。それでも、当時の精神科病院の中にあって、松沢病院は例外的に人手の多い病院だったのですから、ほかの状況は推して知るべしです。
私が受け持った患者さんで、最も長い間在院していたのは29年に入院した人でした。この時点ですでに53年も病院で過ごしていたことになります。しかも、こうした患者さんは決して珍しくありません。若かった私は、何とか退院させたいと躍起になり、ある時、30年以上入院している患者さんを退院させ、特別養護老人ホームに入所させました。
ところが、退院3日目に福祉事務所から、この人が興奮して暴れているのですぐに送り返すという電話が入りました。外来診察室で待っていた私の前に緊張した顔で連れてこられた患者さんは、私の姿を見るなり突然土下座し、「先生、何でも言うことを聞きます。指示は守りますから、二度とよそに出したりしないでください」と床に額をすりつけたのです。
私はぼうぜんとし、我に返ると、涙をこらえきれませんでした。私がやっている「精神医療」は、何十年もかけて、病院でしか生きていけない人を作っていた、患者さんの魂を自由にはばたかせるのではなく、病棟という小さな世界の中で職員への服従を強い、その結果、無批判に服従することに慣れ、自由に耐えられない人を作ってしまった――。そんな現実を突きつけられたような気がしました。
松沢病院は、看護師、コメディカル(医療従事者)、事務員、その他の現業職員など、病院の運営にかかわるさまざまな職業の人たちと直接顔を合わせて一緒に働く場でした。「公務員は全体の奉仕者である」という憲法の規定によるなら、松沢病院の全職員(当時は、都立病院の院内で働くほぼすべての人が公務員でした)は、精神に障害を持つ人だけでなく、すべての都民のために働いてしかるべきでしょう。
しかし、私にはとてもそのようには見えませんでした。臨床の場にまで入り込む前例主義が組織としての改革を阻み、職種ごとの縦割りが仕事の効率を妨げていたのです。そうした公務員精神が最も色濃く表れているのは事務官で、当時の庶務課はテレビや映画に出てくる村役場のようなのんびりとした空気が流れ、すぐ目の前にいる精神障害者の悲劇的な状況など全く我関せずでした。
もちろん、一緒に働いた一人一人を見てみれば、どの職種にも、誠実に、熱心に働く人がたくさんいて、その人たちに支えられ、導かれて、半人前だった私が一人前になった時期です。病院の塀の中全体が一つの村のようだった当時の松沢病院には、善きにつけあしきにつけ濃密な人間関係があり、とても心地よい場所でもありました。
今から振り返ると、若い時代の自分をほめてやりたいと思うことがあります。それは、精神障害者がおかれた理不尽な境遇に対する困惑や、手をこまねいて何もしない都立病院という巨大な公務員組織の怠慢に対する怒りを、自分の心で折り合いをつけて常識的な大人になるのではなく、矛盾は矛盾として胸に抱き続けたことです。
都立病院、国立大学の「経営」は経理であって経営ではない
85~86年に留学したロンドンでは、大学での研究とは別に、イギリスの精神医療に関連した文献を収集し、精神医療に関連する新聞記事を多数スクラップしました。その中には、施設職員の虐待など日本でもあるような精神科病院内でのスキャンダルをはじめ、精神障害者用のグループホームができたものの地域住民の反対で何年も入居できないまま放置されているといった、精神障害者に対する社会一般の差別意識にかかわる内容の記事も少なくありませんでした。
日本の精神医療に携わる人の間では「コミュニティーケア(障害を持つ人が地域で暮らすための支援)の総本山」として知られていたイギリスでも、精神障害者への偏見と差別は少しも変わりなく、彼らの生きにくさも同じだという思いを抱いて帰国しました。そして、松沢病院で過ごした後、91~98年は当時の東京大医学部精神医学教室教授、松下正明先生の下で講師を務めました。
大学の教官というのは全く予定外のキャリアでしたが、東京大講師という肩書と、松下先生のご推挙のお陰で、実力以上の仕事をさせていただき、後の職業生活にとって大きな力となりました。このような経験がなければ、今の私はありません。
松下教授の退官に伴って98年に大学を辞し、医療法人社団慶成会理事長(当時)の大塚宣夫先生の下で仕事をしました。慶成会で知ったのが、医療経営というものの意味と意義です。松沢病院でも東大でも経営の話は耳にたこができるほど聞かされたものの、うんざりすることばかり。しかし、大塚先生の下で学んだ「経営」には、興味をかき立てられ、経営学の文献を読みあさるほどに熱中しました。
都立病院、国立大学の「経営」は経理であって経営ではありません。経理は過去の数字をもてあそぶだけで全く生産性がない一方、経営はダイナミックな現在進行形のプロセスです。
松沢病院では一医員として、大学では外来医長、病棟医長として経営に関する会議に参加しました。それは過去の経理指標を見ながら、「減収になっている部門の増収を図りましょう」というだけで、方法論もなく実現可能性に対する評価もありません。
一方、大塚先生の下で開かれる経営会議には、病院の各職種に加え、財務、税理の専門家はもちろん、マーケティングのプロや広報の担当者が参加。年に何度か開かれる管理職の合宿では、現在の医療情勢を知り、今後の変化を占うため、毎年1人専門家を招き、講演に続いて質疑、ディスカッションがありました。初めのうち、まるで会社の増収を図る会議であるかのような人員構成に戸惑いましたが、やがて、医療経営も、経営という意味では企業とほとんど変わらないと思うようになったのです。
企業は、良い製品(サービス)を作り、自社の商品のターゲットに応じてコストとパフォーマンスのバランスを決め、その製品を売ります。この行為は、私立病院が、優れたサービスを作り、コストとパフォーマンスのバランスを適正化し、患者を集めることと、あまり変わりがありません。営利企業と病院の違いは、医療保険の財源に多額の税金が投入されており、私立病院であっても公的意義を無視できないということ、保険制度によって医療サービスの定価が決まっているということでしょうか。
定価が決まっているので、できるだけ数多くの顧客を集める他に増収の道はありません。大塚先生の病院は、高いサービスを生み出し、優れた広報活動で顧客を集め、サービスを支える人を選び、育て、維持していました。ちなみに、大塚先生の下で働いていた時代、公立病院で今でも行われている「医師に経済感覚を持たせるための研修」に類するような陳腐な研修は一度もありませんでした。経営会議だけではなく、医師としての日々の臨床が経営に関する目を開かせてくれたのです。
理想を追求した診療所の閉鎖で気付いたこと
「現実の社会で持続できない理想は、理想ではない」。これが大塚先生に学んだもう一つの重要な教えです。大塚先生の下で働き始めて2年が経過したとき、先生が経営する病院の院長就任を打診されました。この病院のサービスの高さは日本中に知れ渡っており、入院待機の患者さんは数百人に上っていました。ただし、その高いサービスは、高い差額室料によって支えられており、公立病院育ちでお金のない人たちばかり診てきた私にはどうしてもなじめないものでした。
不遜にも「先生の理想とされる医療と、私が理想とする医療とは違います」と答える私に、大塚先生はびっくりするような提案をされました。「わかりました。それでは、先生の理想の医療を見せてください。累積赤字が1億円になるまでは自由にしていただいて構わない」
私は、新宿に診療所を作りました。目指したのは、高齢の患者さん…
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