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漢方医たちの休日 ~趣味は医業の敵か味方か~

津田篤太郎・NTT東日本関東病院リウマチ膠原病科部長
1944年3月から休場の歌舞伎は、1945年9月1日に再開。舞台衣装なしでも、市川猿之助の「勧進帳」に東劇は満員=東京都中央区で1945年12月20日、写真部員撮影
1944年3月から休場の歌舞伎は、1945年9月1日に再開。舞台衣装なしでも、市川猿之助の「勧進帳」に東劇は満員=東京都中央区で1945年12月20日、写真部員撮影

 現代のようにさまざまな娯楽がなかった江戸時代、医師たちは余暇をどのように過ごしていたのでしょうか。明治の文豪、森鷗外の著した幕末期の医師、渋江抽斎(しぶえ・ちゅうさい、1805~58年)に関する伝記小説では、主人公の生きた時代、人となり、交友関係や仕事ぶりが生き生きと描き出されています。その中で生活ぶりや趣味の面にも触れられているくだりがあります。

 まずは飲食。多くの人にとって食事は人生の楽しみの大きな部分を占めますが、抽斎は医師という職業柄、かなり飲食の内容には気を配っていたようで、食器の大きさやご飯の盛り付けの量を厳密に決めていたようです。お酒もおちょこ3杯ほど、大根とウナギが好物で、みそ汁や納豆といった発酵食品をとり、間食はほとんどしなかったといいます。

 次に読書です。現代の医者も本好きの人が多いですが、これは趣味と実益を兼ねたものといえるでしょう。そもそも、森鷗外が抽斎の名を知ったのは、小説を書くための下調べで古書を集めていた時に、抽斎の旧蔵であることを示す蔵書印を数多く目にしたのがきっかけでした。

 医学の研究と教育に熱心な抽斎の収入のほとんどは、図書の購入と後輩の育成に消えたそうです。そして当時の一流の学者たちを招いて中国最古の字典である「説文解字(せつもんかいじ)」の勉強会を毎月催していました。現代の漢方医が古典籍から学べるのは抽斎たちが地道な文献考証を積み重ねてきたおかげだといえます。

 さらにもうひとつ、抽斎が楽しみにしていたのは芝居でした。当時の市川団十郎や沢村宗十郎のファンで、劇場に足しげく通っていたようです。単に鑑賞するだけではなく長唄を習って「四つの海」という本を出版するほどに情熱を傾けていました。しかし抽斎の学者としての名声が高まり徳川将軍の目通りもかなう身分になると、芝居小屋から足が遠のいてしまいます。

 当時の歌舞伎は高尚な古典芸能とはみなされておらず、非常に庶民的で通俗的な娯楽だったようで、「偉い学者さん」の趣味としてはいささか問題アリでした。抽斎の友人でやはり著名な文献学者である森立之(もり・りっし、1807~85年)も熱狂的な歌舞伎ファンで、芝居好きがこうじてある事件を起こしてしまいました。

 彼は幕府重役の大名家に召し抱えられていたのですが、勤務の合間を縫って歌舞伎の舞台で拍子木を打ったり、エキストラ俳優で出演したりしていました。ある日、芝居見物に来た女中が舞台の上に見知った顔があるのに驚き、大名家は彼のうわさでもちきりになりました。

 もし総理大臣にも意見が言える医学部の有名学者が、YouTubeやTikTokで歌ったり踊ったりしたら今ならちょっとした人気者になるかもしれません。しかし立之の身の上に起こったことは…

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NTT東日本関東病院リウマチ膠原病科部長

1976年京都生まれ。京都大学医学部卒。北里大学大学院修了(専攻は東洋医学)。東京女子医大付属膠原病リウマチ痛風センター、JR東京総合病院、聖路加国際病院Immuno-Rheumatology Centerを経て、現在、NTT東日本関東病院リウマチ膠原病科部長。福島県立医科大学非常勤講師。著書に「未来の漢方」(森まゆみと共著、亜紀書房)、「漢方水先案内 医学の東へ」(医学書院)、「ほの暗い永久から出でて 生と死を巡る対話」(上橋菜穂子との共著、文藝春秋)など。訳書に「閃めく経絡―現代医学のミステリーに鍼灸の“サイエンス"が挑む! 」(D.キーオン著、須田万勢らと共訳)がある。