
これまで、日本の人口高齢化の進行、高齢者の経済格差の拡大、単身、高齢夫婦世帯の増加を振り返り、単身、老老世帯に貧困が多く、こうした世帯で認知症を発症すると、何が起きるかを見てきました。認知症になった後の自己決定支援とされる成年後見制度の問題点、地域生活自立支援制度の課題などにも触れました。
今回はそれらを踏まえ、家族支援を期待できない高齢者が、安全に暮らしていくためにできることについて考えます。
80代後半の標準的知能は20代後半の約6割
高齢者世帯のリスクは、「認知機能」と「身体機能」の低下です。まず、認知機能の低下について考えます。
最初に、少々衝撃的なグラフを見ていただきます。これは最も一般的な知能検査(WAIS)の標準的な成績が、年齢によってどのように変化するかを示しています。WAISの標準化メンバーである上智大学の松田修教授が、日本版WAIS―IVテクニカルレポートのために作成したものを改変してくれました。
グラフにあるFSIQというのは、すべての知能の要素をまとめた、総合的な知能指数(full scale IQ)という意味です。折れ線グラフは、最も知的な能力が高い25歳から29歳の人の中央値を100とした時、各年齢階級の中央値はどのくらいになるかを示しています。
グラフが示すとおり、85歳から90歳(80代後半)の人の標準的な成績は、25歳から29歳(20代後半)の人の標準の6割程度です。
つまり、85歳から90歳の人がIQ100(自分が属する年齢階級の標準)と評価される成績は、25歳から29歳の人だったらIQ60で、軽度精神発達遅滞と診断されるレベルだということです。IQ69以下というのは、各年齢の成績の下のほうの2.2%ぐらいですから、正常老化のインパクトがどのようなものだか想像できるでしょう。
そんなことはない、とお思いの方も多いと思います。確かに、85歳を過ぎてもバリバリ仕事をしている人はたくさんいます。でも、それは、加齢による能力の低下を経験知とでも呼ぶべき知恵で補っているからです。
80代以降は、すべての人が認知機能低下に備えよ
高齢者の認知機能の低下は、検査のような落ち着いた場面では現れにくく、現実生活のストレスのもとで大きくなります。高齢者が高速道路の多重事故に巻き込まれやすいのも、1人暮らしのお年寄りが簡単に振り込め詐欺に引っかかってしまうのも、日常と違う事態に直面した時、老化による能力の低下が顕著になるからです。
認知症の場合はどうでしょう。多くの場合、認知症も老化と同様、ある日、突然起きるものではありません。特に、高齢者の認知症の原因として最も一般的なアルツハイマー型認知症の場合、診断が確定する5~10年前からゆっくりと進行していきます。
ゆっくりならば、どこかで気づいて準備ができるだろうと思うのですが、これが実は難しいのです。脳梗塞(こうそく)のように、急激な変化の直後に症状が起これば、誰でも異常に気づきますが、長い年月をかけて少しずつ進行していくもの忘れには、なかなか気づけないのです。これは、認知症の場合だけではなく、80歳を過ぎた人に普通に起こる認知機能の低下も同様です。
70代後半から80歳を超えると、認知症と診断される人の能力と、正常な加齢現象を示している人の区別は判然としなくなります。この違いの不明瞭化は、心理検査の成績だけの話ではなく、死後の脳を解剖してみても同じことが言えます。
60歳で死亡した認知症ではない人の脳と、60歳で若年性アルツハイマー病のために亡くなった人の脳を調べれば明らかに違います。しかし、85歳で亡くなったアルツハイマー型認知症と診断された人の脳と、認知症とは関係のない病気で亡くなった人の脳には、それほど大きな違いはないのです。認知機能低下に備えなければならないのは、認知症と診断された人だけでなく、80歳を過ぎたすべての人なのです。
認知症の場合は、生活のほころびが顕著に表れますが、80歳を過ぎて家族支援のない普通の高齢者の破綻は、自然災害、振り込め詐欺、病気や怪我のための突然の入院など、予測していない事態に直面したときに顕在化します。
「まだ大丈夫」は「もう危ない」
さて、能力低下を認めたくないのは、アルツハイマーの患者さんでも、正常な高齢者でも同じです。そうなると、日々少しずつ起こってくる自分の能力低下に気づくのは非常に難しくなります。
せっかくゆっくり進行し、備えようと思えばできるのに、それを怠ると、後でせっかくの一生が台無しになるような事態に立ち至ります。自分で事態をコントロールできないほど追い詰められてしまうと、人生に関する選択ができなくなってしまうということは、これまでお話ししてきたとおりです。
それでは、日々、少しずつ進行する認知機能の低下に備えるにはどうしたらよいのでしょう。…
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