
安倍晋三元首相が、今月8日、参院選の応援演説中に銃撃され亡くなりました。少子高齢化、経済の停滞、格差の拡大、人口減少とさまざまな課題が山積する中、8年8カ月という歴代最長期間、首相を務めた安倍氏が社会福祉の分野で果たした役割とは。野澤和弘さんは、長い時間軸から見た冷静な判断が必要と話します。
思想と政策は一致しない
凶弾に倒れた直後からネット上で毀誉褒貶(きよほうへん)が飛び交う。死後にこれだけ激しく愛憎がぶつけられる政治家がいただろうか。情に流されて非業の死を遂げた人を美化することは禁物だが、だからといって故人を全否定するような酷評に接すると複雑な気持ちになる。
「戦後レジームからの脱却」を掲げて首相になり、歴代最長の政権を担った安倍氏は憲法改正や防衛力強化などタカ派的な面を語られることが多い。一部のリベラル派メディアや野党への敵意をあらわにした言動が、右寄りの政治思想をさらに際立たせることになった。
安倍氏が2度にわたって政権を担ったのは、日本の少子高齢化が進行する中で国民の生活不安が高まり、政治的関心が社会保障へ集中するようになった時期でもある。タカ派というと弱者に厳しく福祉を切り捨てるようなイメージがある。しかし、難題が次々に押し寄せ、さまざまな利害関係者による複雑な力学がはたらく現実の政治は単純なものではない。
フラットな目でみれば、障害者や子どもの福祉において安倍政権が果たした役割は小さくないと思う。安倍氏個人の思想信条やキャラクターへの好悪とは別に、政治の福祉に対する可能性や課題について長い時間軸から見た冷静な評価が必要である。
小泉政権までは高齢者福祉に重点
「福祉」や「社会保障」が国政の重要課題としてクローズアップされるようになったのは最近のことだ。
農林水産業や自営業が多かったころは、介護も保育も家族内で自然な形で行われていた。お年寄りは今ほど長生きはせず、家族の介護負担もそれほど問題にはされなかった。農業や自営業は定年もないため、働けるだけ働いて家族単位で生活費をまかっていたので年金も必要がなかった。
高度成長期に雇用労働が中心になるのを見越して、政府は社会保険や年金という共助のシステムを作った。1961年に整った「国民皆保険・皆年金」である。政治では55年体制が始まって間もないころ。急成長を遂げた日本経済を支える制度として世界各国から注目された。
それ以来、福祉分野の予算の国内総生産(GDP)比を見ると、高齢者は先進諸国に引けを取らないが、障害者はかなり見劣りし、子どもや家庭に対する支出は著しく低い状態が続いていた。
安倍氏が初めて首相になったのは、2006年9月、前任の小泉純一郎政権が「聖域なき構造改革」を旗印に郵政改革を断行、社会保障や地方財政にもメスを入れ、国民の生活不安をめぐってメディアや野党から批判が高まっていた時期だ。
それまで社会保障の課題とされていたのは、高齢者のことばかりだった。日本の人口が最も多い団塊世代が65歳以上になるのに備えて、00年に介護保険が創設された。そして、75歳以上の人を対象にした後期高齢者医療制度がつくられた。年金改革では基礎年金の税負担を2分の1に引き上げ、長期的に現役世代の負担と高齢者の受給額を調整するマクロ経済スライドを導入して、年金財政の安定に努めた。
安倍政権は「美しい国づくり」「戦後レジームからの脱却」をスローガンに掲げ、教育基本法改正や国民投票法を掲げて威勢よく船出したが、閣僚の不祥事や失言が相次ぎ、自らの病もあって1年で幕を閉じた。
少子高齢化が急速に進むのに伴い、国民の関心が老後の不安など身近な暮らしに向いていることを見誤ったことが招いた挫折だった。
混乱期に党派超えた社会保障安定の機運
観念的なイデオロギーを掲げる安倍政権に対し、野党の民主党(当時)は国民生活に直結した問題で徹底して政権批判を繰り広げた。社会保険庁改革関連法案の国会審議では、年金記録のデータに誤りや不備が多数あることが明らかにされた。いわゆる「消えた年金」問題だ。長妻昭氏らによる執拗(しつよう)な追及で国民の政府批判は高まった。
安倍内閣の後を継いで福田康夫、麻生太郎の両氏が政権を担ったが、衆院と参院の多数派が異なる「ねじれ国会」での混乱が続いた。
09年夏の総選挙で自民党が敗北し、民主党に政権が渡ってからは鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦各氏が首相の椅子に座ったが、いずれも短命に終わり、安倍氏が再登板したのが12年12月。第1次政権の挫折から5年後のことだった。
政局が激しく揺れ動き、猫の目のように政権が代わったこの時期は、閣僚の不祥事、民主党による稚拙な政権運営による混乱、東日本大震災と福島第1原発事故の衝撃が印象に残る。しかし、短命政権に共通していたのは社会保障の安定に向けた取り組みが底流で行われたことであり、官僚機構の根回しもあって政権ごとに引き継がれていった。
小泉政権時には与野党の論客が集まって年金問題を徹底論議した「社会保障両院合同会議」が行われた。マスメディアはほとんど取り上げなかったが、計8回の議事録を読み返すと年金に関するあらゆる論点が議論され、一部を除く与野党の参加議員には年金改革の方向性が共有できていたことがうかがわれる。
福田政権時に発足した「社会保障国民会議」は年金や医療の長期的な見通しをデータに基づいて初めて示した。社会保障各分野の改革に向けた議論の土台を形成した画期的なものだった。それが次の麻生政権の「安心社会実現会議」へと引き継がれる。
これらが結実したのが民主党の野田政権の時に自民党・公明党との間で合意した「税と社会保障の一体改革」だ。両院合同会議から7年を経て与野党がやっとたどりついた合意である。この時の自民党総裁は谷垣禎一氏だが、直後に政権奪還してから首相の座に就いたのは谷垣氏ではなく、安倍氏だった。
消費増税を2度にわたり延期
積極的な外交とともに国内では「アベノミクス」を看板に成長戦略を柱に据えたのが第2次安倍政権だ。
安倍氏は社会福祉に熱心だったわけではない。むしろ、「税と社会保障の一体改革」の3党合意によって、消費税を上げて社会保障財源にすることが決められていたことを足かせのように思っていたはずである。消費増税によって国民の消費が冷え込むのはアベノミクスに冷水を浴びせることになる。予定されていた時期での消費税アップを2度にわたって延期したことは安倍氏がいかに消費増税を嫌がっていたのかを物語る。
消費税を5%から10%へ引き上げ、その使途を従来の高齢者向けの3経費(基礎年金・老人医療・介護)に少子化対策を加えることを決めたのが3党合意である。子ども・子育て関連3法の成立(12年)によって、認定こども園の改革や地域の実情に応じたきめ細かい子育て政策に多額の予算が計上された。
これに沿う形で安倍政権は都市部を中心に深刻な問題となっている待機児童の解消を目的とする「待機児童解消加速化プラン」を策定した。5年間で40万人(後に10万人上乗せ)の保育の受け皿を確保するという内容だった。
安倍氏の本音がどうだったかは別にしても、結果的には、3党合意は安倍政権によって花を開くことになった。
3党合意に押され子育て支援にシフト
安倍政権の待機児童対策にはさまざまな批判がある。…
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植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員
のざわ・かずひろ 1983年早稲田大学法学部卒業、毎日新聞社入社。東京本社社 会部で、いじめ、ひきこもり、児童虐待、障害者虐待などに取り組む。夕刊編集 部長、論説委員などを歴任。現在は一般社団法人スローコミュニケーション代表 として「わかりやすい文章 分かち合う文化」をめざし、障害者や外国人にやさ しい日本語の研究と普及に努める。東京大学「障害者のリアルに迫るゼミ」顧問 (非常勤講師)、上智大学非常勤講師、社会保障審議会障害者部会委員、内閣府 障害者政策委員会委員なども。著書に「スローコミュニケーション」(スローコ ミュニケーション出版)、「障害者のリアル×東大生のリアル」「なんとなくは、 生きられない。」「条例のある街」(ぶどう社)、「あの夜、君が泣いたわけ」 (中央法規)、「わかりやすさの本質」(NHK出版)など。