大河内大博さん(筆者撮影)
大河内大博さん(筆者撮影)

 病院やホスピスで死を前にした患者と対話する活動を長年続けている、大阪市の願生寺(がんしょうじ)住職、大河内大博(だいはく)さん。2020年には在宅でのみとりを支えるために、寺の名を冠した訪問看護ステーション立ち上げに関わり、必要に応じて宗教者が話を聴く態勢を整えています。

唯一できることは「覚えていること」

 ――病院やホスピスで、死を前にした患者さんとお話しするチャプレンとしての活動を約20年間続け、患者さん一人一人を「忘れない」ことが大切だと常々おっしゃっていますね。

 ◆私の師匠である伊藤高章先生の教えで、スピリチュアルケアとは相手の方の人生の証人になる、平たく言えば忘れないでいることだと考えています。こんな生き方をして亡くなっていかれたのだと覚えておく。

 チャプレンは患者さんの人生の最後の本当に一コマに登場するにすぎません。そんな自分に大切な思いとか生き方とかを話してくださった意味の重大さ。出会ったことを忘れないでいることがまさに、その方が生きた証しになっていく。何ができるわけではない無力さの中でベッドサイドに行っているのですから、せめて唯一できるとしたら覚えていることだと思って大事にしている姿勢です。

 ――つらくないですか?

 ◆つらいこともあります。やるせなさを感じることもあります。満足してとか、本当に人生を生き切ってとか、いわゆる「死の受容」をして亡くなる患者さんは、本当に一握りでした。みんな表面的には死を受け入れているように感じることはあっても、どこかで何かしら無念を残したり、やり残したことがあったり、早く死にたいという思いがあったり。未完成の中で私たちは死んでいくのだということが、現場で教えてもらったことです。

 そこで私自身の信仰というものがとても大事になってくると思います。患者さんのそうした姿こそが人間の姿であると仏教から教えてもらっているし、それは決して不幸なことではないと仏教が説いてくれています。私の信仰でいえばこの世が終わりなのではなく、阿弥陀様にお迎えいただく来世があって、いわば託す場所を私自身が持っています。そのことで、つらいながらも押しつぶされることにはならないと感じています。

神も仏もない、と思うことも

 ――著書「今、この身で生きる」の中に「なんでこの人がこんなに悲しまないといけないのか」「仏様はどうしてこの家族を助けてくれないのか」と叫びたくなるといった記述があります。信仰があってもやはりそういう思いを抱くのでしょうか?

 ◆先ほどの話とは矛盾するかもしれませんが、「仏もへったくれもない。何が阿弥陀じゃ!」みたいなことを思うことはしょっちゅうあります。やはり理不尽さは感じますし、人間世界の限界というのは常々感じています。

 それは別に他者や社会にだけではなくて、自分の内にもある。本当にうんざりする時もあるし、そんなことも含めて何とかしろよとは思ったりもするんですけれども、何ともならないことなんだよねと、自分の中でぐるぐる回ったりする。結局、そういう自分を受け入れてくれる仏様として私は信仰をいただいているので、「愚痴ってはダメ」なんていう安いことはいわないでしょうね、と(笑い)。

 それに…

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ライター/立教大学社会デザイン研究所研究員

ほしの・さとし 1962年生まれ。元朝日新聞記者。30年ほど前、墓や葬儀の変化に関心を持って以降、終活関連全般、特にライフエンディングについて取材、研究を続けている。2016年に独立。立教大学大学院、東京墨田看護専門学校で教えるほか、各地で講演活動も続ける。「つながり」について考えるウエブサイト「集活ラボ」の企画・運営も手がける。著書に『人生を輝かせるお金の使い方 遺贈寄付という選択』(日本法令)、「『定年後』はお寺が居場所」(同、集英社新書)「終活難民-あなたは誰に送ってもらえますか」(2014年、平凡社新書)ほか。