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「命を預かる責任」移植待機者の介助者にのしかかる重圧

倉岡 一樹・東京地方部記者
心臓移植手術後、急速に回復を遂げる森原さん。「人生をともに歩んでくれる妻に感謝の気持ちでいっぱい」。その言葉に、結婚前から支え続けてくれた妻、リンジーさんへの深い愛情がにじむ=森原さん提供
心臓移植手術後、急速に回復を遂げる森原さん。「人生をともに歩んでくれる妻に感謝の気持ちでいっぱい」。その言葉に、結婚前から支え続けてくれた妻、リンジーさんへの深い愛情がにじむ=森原さん提供

 脳死患者からの心臓移植で救われた広島市の元高校教諭、森原大紀さん(33)が補助人工心臓(VAD)を装着して待機した期間は4年半に及んだそうです。その間は、介助者として妻のニューマン・リンジーさん(37)、父の清太さん(63)、母のゆう子さん(64)の3人が24時間体制で付き添いました。移植を待つ患者を介助する側の視点から、森原さんを支えた家族に振り返ってもらいました。

 森原さんが特発性拡張型心筋症を発症した時、交際中だったのがリンジーさんだ。病とひたむきに向き合う森原さんの姿にひかれ、迷うことなく仕事を辞めて支えることを決めた。

 そして今「介助者として支えることは単純ではなかった」と振り返る。

「何か不具合が起きたら」24時間の重圧と緊張

 VADの介助者講習を清太さん、ゆう子さんとともに受け、一通りの操作は身につけた。一方で、命を預かる責任を24時間背負わなければならない。極度の重圧と緊張にさらされた。

 「『何か不具合でも起きたら……』とただ怖かった。でもそれ以上に、(森原さんが)一日一日を一生懸命生きることに必死なので余裕がなかった。精神的に疲れた」

 英国出身のリンジーさんには言葉の壁もあった。

 日常会話に支障はないものの、込み入った話は理解できずにフラストレーションがたまった。医師の説明も理解できず、森原さんの家族とも満足に意思疎通が図れなかった。それがやりきれなかった。「緊急で助けを求めねばならない時に情報を適切に伝えられるかどうか常に不安だった」

 何より、心のよりどころだった森原さんの病状が怖かったという。「脳血栓になって私のことや英語を忘れてしまうのではないか」。そんな恐怖心にさいなまれ、帰国してキャリアを積むことや、英国の家族と暮らすことを諦めるなど、大きな犠牲も払った。「先の予定も立てられなかった。常に時計を眺め、『残された時間はどれくらい』と考えてしまっていた」

 だからこそ、介助生活の悩みや苦しみを誰かに打ち明けたかった。しかし…

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東京地方部記者

1977年生まれ。早稲田大卒。2003年、毎日新聞社に入社。佐世保支局を振り出しに、福岡報道部、同運動グループ、川崎支局、東京運動部、中部本社スポーツグループなどを経て、19年4月から東京地方部。スポーツの取材歴(特にアマチュア野球)が長い。中学生の一人娘が生まれた時、初めての上司(佐世保支局長)からかけてもらった言葉「子どもは生きているだけでいいんだよ」を心の支えにしている。