夕闇を映し出す川面=徳野仁子撮影 
夕闇を映し出す川面=徳野仁子撮影 

 生きていることへの実感が持てない、なんとなく不安で満ち足りなさを感じている。そんな子どもや若者のことが気になる。いじめ、不登校、自殺などは過去最悪の水準にあるが、そうしたネガティブな現象は氷山の一角に過ぎなくて、多くの子どもたちがそこに連なる不全感を抱えているように思う。

 さまざまな影が重なって子どもたちを覆っているのだろうが、その一つは家庭内の暴力、特に父親からのものである。児童虐待はずっと増え続けており、20万件を超えるに至った。これも表に出たほんのわずかなものであり、はるかに多くの虐待が子どもたちを傷つけている。

 「父」というリスクにおびえる子どもたちから目を背けてはならない。

家庭という密室での暴力

 どこから見ても恵まれた家庭で育ち、何も不自由のないと思える女子学生の暗い素顔に驚かされることがある。ふだんは仲の良い友だちにも見せようとしない。きっと、その家族と付き合いのある人も本当のことは知らないのだろう。

 現在、私はいくつかの大学や専門学校で授業やゼミを持っている。中学や高校で出前授業をやることもあり、そうした機会にたくさんの学生・生徒と関わっている。文章表現に関する授業やリアクションペーパーで学生たちの書いた文章を読んでいると、平穏に見える外見からはうかがい知ることのできない養育環境や家庭事情を垣間見ることがある。

 そうした文章作品を学生たちの了解を得て「こもれび文庫」で紹介している。

 都内の有名大学に通う2年生(当時)の女子が書いた「ピアノ」という題の作品はその一つだ。

 <好きな曲を好きなテンポで、好きな音量で飽きるまで。心が落ち着かない時、私が鍵盤の前に座りたくなるのはきっとこの家に生まれたからだ。

 楽器をやっている両親の影響で、家族全員が何かしら楽器をやっていた。側から見ればただの音楽好きな家族に見える。しかし、他人家族を内側から見る機会は滅多にないため、実際には表向きとは大きく異なり歪(いびつ)な形をしている場合だってある。

 週末は地獄だ。突き飛ばされ、蹴りを入れられ、平手打ちされる。小さな体で抵抗しても、倍以上の力でねじ伏せられる。物が飛んでくることもあった。投げつけられたコップが目の前で割れた時に、キラキラとガラスの破片が飛び散った光景を今でも鮮明に覚えている。

母が止めに入ってもおさまらない興奮。

 「お父さんもうやめてよ!」

 妹が泣きじゃくると、ようやく動きが止まる。細い手足で大の字を作り、父と私の間に入ってくる。きっと殴られたらすぐに折れてしまうのに、それでも果敢に止めに入ってくる。唯一の救いだと思う一方で、なぜこの子は殴られないのだろう、とわだかまりが残った。

 110番をしようと何度も受話器に手を掛けた。でも、できなかった。家族だからできなかった。父がいて、母がいて、姉妹がいる家族の形を壊す勇気が私にはなかった。壊す権利が私にはなかった。だから、ただひたすら耐えるしかなかったのだろう。

 内側に秘められて歪(ゆが)んだ家族は、表向きでは至って普通の家族だ。昨日の地獄は幻で、何事もなかったかのようにリセットされてゆく。そんな地獄と取り繕った日常で保たれてきた家族に一体何の意味があるのだろう>

 自宅には防音装置を施された音楽室があり、家族全員が何かしらの楽器をやっている。そんな家庭がこの低成長下の日本にどれだけあるだろう。「表向きはいたって普通の家族」と彼女は言うが、格差社会の勝ち組であり、平均よりはるかに恵まれた家庭と言っても過言ではない。

 しかし、この女子学生の家庭内で行われる暴力は尋常ではない。取り繕われた日常の家族の風景を見ている人々は、閉ざされた家庭の中で娘が傷つけられていることを知らない。

深夜にさまよう少女

 この女子学生の家庭だけが特異なわけではない。その翌年に1学年下の別の女子学生が書いた文章を紹介しよう。まじめで穏やかなほほえみを浮かべる朗らかさのどこに、このような闇が隠れているのだろうかと、こちらが戸惑ってしまうほどだ。

 <「うちにいられると迷惑なんだよ、め・い・わ・く。そんなやつうちの子じゃない。お願いだから出ていってくれよー。お願いします、出ていってください!」

 鮮明に再生できる言葉。お望み通り、2020年の9月、夜7時私は家を飛び出した。玄関までついてきた男性は私が玄関を出た瞬間、扉に鍵とドアストッパーをかけた。

 当時は受験生だった。受験真っただ中であった9月も家事をしていた。出先から帰ってきた父がキッチンに立つ私を見て、「余裕そうだね~。勉強は?」と言った。確かにそう、言ったのだ。

 「余裕じゃないし、お手伝いしてるだけじゃん」

 苦言を呈し、抗議すると、勝手に持論を展開し結論付けて、追放された。

 家を出ると、私は無敵になれる気がした。泣き叫びながら、夜の田舎道を歩いていく。素足にローファー、Tシャツにジーンズ。正直、警察に捕まったっていいと思った。でも、生活が立ち行かなくなる。母や兄弟が路頭に迷うことになる。お金がなければできないことは多い。補導されたら、私にもバツがついてしまう。できるだけ警察に見つからないように深夜12時まで歩き続けた。

 本気で父に変わってほしいと思ったこともある。でも、成人男性の力に勝てるわけがないのだ。こぶしも足も体もボールもマウスもなんだって飛んでくる。72kgの父に全身で押しつぶされる弟を見ているうちに、謝罪のような言葉を叫ぶ弟を見ているうちに、声が聞こえなくなった。

 「おい!謝れよ!おーい!!!」

また音が聞こえてくる。人間が転ぶ音。叫ぶ音。ものが床に落ちる音。壁にぶつかる音。私はイヤホンをさした。静寂。耳の中にはひとがメロディーに乗せて訴える声が聞こえる>

 現在も親子で同じ家で暮らし、授業料などの学費も出してもらっていることを考えると、子どもの養育についてはそれなりの責任を果たしている親であるには違いない。ただ、常軌を逸した時の暴力のすさまじさが臨場感のある描写からリアルに伝わってくる。

 ふだんは穏やかな表情をした女子学生の内面に、どこか損なわれたものがないか気になってしまう。

子どもたちのデリケートな心

 それでも認めたくない人はいるだろう。子どもの方にも問題があったのかもしれず、子どもの言い分…

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植草学園大学教授/毎日新聞客員編集委員

のざわ・かずひろ 1983年早稲田大学法学部卒業、毎日新聞社入社。東京本社社 会部で、いじめ、ひきこもり、児童虐待、障害者虐待などに取り組む。夕刊編集 部長、論説委員などを歴任。現在は一般社団法人スローコミュニケーション代表 として「わかりやすい文章 分かち合う文化」をめざし、障害者や外国人にやさ しい日本語の研究と普及に努める。東京大学「障害者のリアルに迫るゼミ」顧問 (非常勤講師)、上智大学非常勤講師、社会保障審議会障害者部会委員、内閣府 障害者政策委員会委員なども。著書に「スローコミュニケーション」(スローコ ミュニケーション出版)、「障害者のリアル×東大生のリアル」「なんとなくは、 生きられない。」「条例のある街」(ぶどう社)、「あの夜、君が泣いたわけ」 (中央法規)、「わかりやすさの本質」(NHK出版)など。