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まとめきれない「こころ」と「からだ」 ~精神分析と漢方医学の不協和音~

津田篤太郎・新潟医療福祉大学 リハビリテーション学部 鍼灸健康学科教授
 
 

 今年の夏は記録的な猛暑の日が続きましたが、少しずつ太陽の光が衰え、秋の気配も漂ってきました。毎年このシーズンになると亡くなられた人のことをふと思い出します。

 数年前、病床にふしておられたさる高名な精神科医のお見舞いに行ったときのことです。

 20世紀前半に活躍した神経科学者、ワルテンベルクが書き残した「謎の症例」がその日の話題となりました。よくそんな古い症例を覚えていらっしゃるなあと驚くとともに、現在のような血液検査や画像検査が無い時代の医学者の観察力と精密な症例描写ぶりが強く印象に残りました。

 実はこの症例は、おそらく膠原病(こうげんびょう)に関連した脳の炎症と思われました。年老いた精神科の先生は、知ってか知らでか、私の専門領域ど真ん中のお話をしてくださっていたわけです。

 そして話の最後に、「君は、いつ精神科に戻ってくるのかね?」と尋ねられました。

 この問いに私は絶句してしまいました。私は内科医としてずっと働いてきましたし、診療科を変わる希望も動機も全くなかったのです。それなのに、なぜかこの先生は私が精神科医として「戻ってくる」のを心待ちにしていらっしゃったのです。

 ひょっとすると先生は私のことを、遅れてやってきた弟子のひとりのように思っていらっしゃったのかもしれません。大変尊敬していた先生だったので、もし「弟子」として認めていただいていたのなら、私にとってとても光栄でうれしいことです。

 考えてみると、この先生を含めさまざまな精神科医の先生方に、公私にわたってお世話になってきました。

 ある意味、内科の同僚以上に深い付き合いをしてきたかもしれません。にもかかわらず、自分が「精神」を専門とする医療職を敬遠したのはなぜだったのかなあと、時々考えることがあります。

 そんな私も大学教員となり、来年からメンタルヘルスの授業を受け持つことになりました。

 鍼灸(しんきゅう)師教育のバックボーンとなる東洋医学は「心身一如(しんしんいちにょ)」、すなわち身体も精神もひとつのものとして捉え、包括的に治療する枠組みです。鍼灸師たるもの、「こころとは何か」についてプロフェッショナルとしての考え方を持ち合わせていなくてはなりません。

 私は内科医として最低限の精神医学の知識しかありませんから、不足を補うべく2人の専門家の講義を聴講することにしました。京大大学院准教授の松本卓也先生と、白金高輪カウンセリングルームの東畑開人先生の講義です。

 お二人とも1983年生まれの気鋭の精神分析家で、語り口やアプローチは大いに異なっていますが、難しくなりがちな話を巧みな比喩や具体例をふんだんに用いて、聞き手の興味をひきつけるさまは、新人教員の私にとってとても勉強になりました。

「当たり前」を失って、日常が難解になる病

 松本先生は、20世紀ドイツ精神医学の古典的な論文をとりあげて、ネーティブのドイツ人が読んでも理解に苦しむような晦渋(かいじゅう)な文章を、原典に忠実な日本語訳でかみ砕いて解説するというスタイルで講義が進められました。

 内容を完璧に理解できたとは言い難いかもしれませんが、少なくとも「なぜこんなに難しいか・難しくしなければいけなかったのか」はわかったような気がします。

 俎上(そじょう)に上がった論文の一つに「自明性の喪失」というものがありました。「自明性」、つまり当たり前に感じること、疑問や違和感を全く抱かずに過ごすことが失われ、精神を病んでしまうという意味です。

 それでは、精神を病んでいる人にはこの世界はどう見えているのか、これを知るには、「当たり前」がどう成り立っているのか、どうして「当たり前」で済まされているのかを考えてみなければなりません。

 なぜ目の前に机があるのか、その机のうえになぜ読みかけの本や書類が積んであるのか、その横になぜ缶コーヒーがあるのか……。

 常人が「当たり前」でスルーしていることですが、病んだ人は日常が“問い”で埋め尽くされて生活が円滑に送れなくなるのです。…

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新潟医療福祉大学 リハビリテーション学部 鍼灸健康学科教授

1976年京都生まれ。京都大学医学部卒。北里大学大学院修了(専攻は東洋医学)。東京女子医大付属膠原病リウマチ痛風センター、JR東京総合病院、NTT東日本関東病院リウマチ膠原病科を経て、2023年4月より、新潟医療福祉大学リハビリテーション学部鍼灸健康学科教授。聖路加国際病院 Immuno-Rheumatology Center 臨床教育アドバイザー 。福島県立医科大学非常勤講師。著書に「未来の漢方」(森まゆみと共著、亜紀書房)、「漢方水先案内 医学の東へ」(医学書院)、「ほの暗い永久から出でて 生と死を巡る対話」(上橋菜穂子との共著、文藝春秋)など。訳書に「閃めく経絡―現代医学のミステリーに鍼灸の“サイエンス"が挑む! 」(D.キーオン著、須田万勢らと共訳)がある。