記者コラム 自衛隊のリアル

平成の平和を支えた「しんどさ」

    初の「戦地」入りとなるイラクのサマワ到着を報告するため、行進する陸上自衛隊本隊の先発隊員=サマワ駐留オランダ軍宿営地で2004年2月8日、岩下幸一郎撮影
    初の「戦地」入りとなるイラクのサマワ到着を報告するため、行進する陸上自衛隊本隊の先発隊員=サマワ駐留オランダ軍宿営地で2004年2月8日、岩下幸一郎撮影

     8月15日に開催された政府主催の全国戦没者追悼式で、天皇陛下がおことばに「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」との一節を新たに加えられたことが話題になった。平成最後の「夏」ということを意識されたのだろうか。新たな平和への思い、ということなのだろうか。

     夏にしか平和と戦争について取り上げない「8月ジャーナリズム」という批判の言葉はあっても、私たち日本人が、8月6日、9日のヒロシマ、ナガサキの原爆の日に続く終戦記念日を機会に、平和について考えることは大事だと思う。もちろん、沖縄で組織的な戦闘が終わった6月23日や東京大空襲の3月10日なども大事な日付ではあるけれど、国民こぞって同じ思いになって考えるのは、夏、8月だと私は信じている。

    陸上自衛隊創立祝賀式で、分列行進する越中島の自衛隊員=東京都江東区深川越中島(後に江東区越中島)で1954年7月1日
    陸上自衛隊創立祝賀式で、分列行進する越中島の自衛隊員=東京都江東区深川越中島(後に江東区越中島)で1954年7月1日

     確かに、陛下がおっしゃったように、73年もの長い間、戦争がなかったのは大変ありがたいことだ。終戦からいまに至るこの長き平穏の時間は、実は明治維新から太平洋戦争開戦の時間とほぼ同等の長さになる。そんなことをある新聞コラムで知って、自分のフェイスブック(FB)に投稿したら、FB仲間である若い自衛官から「それって、旧陸海軍興亡の歴史と、自衛隊が存在してきた期間も並び、越えて行くということですね」などとコメントをもらった。正式に設立されたのは1954年だから、自衛隊は創設64年。厳密にいえば70余年の旧陸海軍の歴史とは少々開きがある。ただ、そう考えることによって、「平和」は違ってみえてくる。

     旧軍は戦争に備え、そして戦争を実際に遂行した組織である。一方、戦後に生まれた自衛隊は平和を追求し、そして実戦をしてこなかった組織である。これは善悪という価値基準からはもちろん離れ、その時々の置かれた国際情勢に応じてそうなったのだ。私はそう考える。付け加えるならば、平和という言葉の解釈はいろいろあるが、自衛隊の目指す「平和」は、地域の、そして世界の「秩序の維持」のことであろう。

     そうしてさらに平成という時代に限って自衛隊の活動をみてみると、それは「海外派遣」に端を発して「任務が激増した時代」といっていい。その背景には、平成元年にあたる1989年にベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦が終結していったという時代背景がある。つまり、平成という時代は、偶然にも世界の歴史とリンクしてポスト冷戦の新時代のページをめくることになったのだが、それに合わせて、自衛隊の任務も変容していったのだった。

     上の表をみていただきたい。91年のペルシャ湾への掃海艇派遣を皮切りに、92年にはカンボジアPKO(国連平和維持活動)が実施されて陸自部隊が初めて海を渡りはじめる。そのわずか10年ほど前、私は防衛大学校に在籍していたけれど、当時、海外派遣など夢想だにしなかったことだった。そして95年はまずは1月に阪神大震災への対処をし、引き続き3月にカルト教団による首都大規模テロの対応にも追われることになった。99年には前回当欄でふれた能登半島沖不審船事件があって部隊が「死に最も近づいた」事態を経験し、結果、自衛隊初の特殊部隊の創設に至る。2001年の米同時多発テロのあとは、「戦時」派遣をし、「戦地」派遣もこなしていく。

     さらにソマリア沖の海賊対処のために、自衛隊はアフリカ北東部のジブチに基地(拠点)までつくり、あまり知られていないだろうが他国軍も含めた部隊の指揮官まで務めた。そして東日本大震災の原発事故に際しては、訓練すらしたことのない、爆発の危険のある原発上空からの放水任務まで実施したのであった。表には「★」マークをつけてみたが、「自衛隊初」の任務がいかに多いかがわかる。まさに、平成という時代に入ってから任務は増大し多様化し、自衛隊はあれよあれよという間に変容していったのである。

     自衛隊を批判的にみる人たちの目には、「自衛隊は戦争しようとしている」というふうに映るのかもしれないが、私はそうは思わない。だいいち、たとえばPKOは、戦争を可能な限りしないための世界的な組織である国連が、「出す」と決めた任務である。それに日本も加わることが、どうして戦争をしに行く、となるのか、私には理解できない。冷戦後に世界が流動化する中で、ひとつひとつの任務は必要で適正な任務だったと思う。もっといえば、海外で、外国の部隊と連携して活動することで、部隊の運用能力は確実に高まっていったし、外国軍の士官たちと対等に渡り合えるようになったと、いまの制服幹部と話していてそう思う。そのことは日本の安全保障に関していえば、とてもいいことであろう。

     ただ、これからが今回、最も訴えたいことなのだが、平成の自衛隊は疲れている、と感じる。任務があまりに多すぎて疲弊している、といっていい。これは深刻な問題だ。

    迫撃砲らしきものの攻撃を受けて、宿営地のゲートで警備に当たる自衛隊員=イラク・サマワで2004年4月8日、加古信志撮影
    迫撃砲らしきものの攻撃を受けて、宿営地のゲートで警備に当たる自衛隊員=イラク・サマワで2004年4月8日、加古信志撮影

     国際情勢に応じてきた危機対応の組織が変わっていくことは当然だし、変わるべきだと思う。しかし、それにはそれ相応の時間と予算が必要なのではないか。具体的には、必要な装備をそろえ、それに習熟する訓練時間の問題である。たとえば、これまで一度も行ったことのない「戦地」イラクに部隊を派遣したとき、装備や訓練、そして何より大事な法的な整備が十全だったかといえば、そうではなかったと思う。いわば「見切り発車」であった。派遣期間中に宿営地は迫撃砲の攻撃を受け、車列はIED(即席爆破装置)で狙われた。戦死者も負傷者も出なかったのは指揮官・隊員たちの不断の努力の成果ではあるが、ある意味、僥倖(ぎょうこう)であったといってもいい。本来なら、「運任せ」で軍事組織を運用することはあってはならないはずだが、この平成の30年は、あまりに変化が早すぎて、対応が追い付かなかったのだ。

     そして、私が恐れるのは、その傾向は今後も続くということだ。

     新たな「危機」が次々と叫ばれ、最新の装備の予算がどんどんつけられる中で、それに関係する地道な訓練は追いついていないと、私は現場の若い隊員たちや彼らを束ねる下士官たちからよく聞く。新任務にたどりつく前の、本来やっておかねばならない基礎的な訓練もなかなか難しいという。そもそも募集がきわめて困難なのだ。新しい隊員が入ってこないという。

    航空自衛隊初の女性戦闘機パイロット、松島美沙2等空尉=宮崎県新富町の新田原基地で2018年8月23日、塩月由香撮影
    航空自衛隊初の女性戦闘機パイロット、松島美沙2等空尉=宮崎県新富町の新田原基地で2018年8月23日、塩月由香撮影

     防衛省は8月上旬、募集難に対応して、自衛官の採用年齢の上限を、現行の26歳から6歳引き上げて32歳にする方針を明らかにした。任期付きの「自衛官候補生」と部隊の中核を担う「一般曹候補生」が対象だという。あとは間違いなく女性隊員の増加に目が向いてくるだろう。これまで順次、解禁されてきた女性隊員の戦闘職種への登用であるが、「最後の聖域」とされた潜水艦部隊の門戸開放も検討され始めたと耳にした。そうしないと、部隊運用が回らないのだ。

     数年前、冨澤暉・元陸幕長が「これからの幹部は、訓練をしたことがない任務は『できません』と、率直に言う勇気を持つべきだ」という旨の発言をしたことがあった。前述した東日本大震災の際の、原発への「決死」の放水任務を念頭においた発言だったが、現役幹部の受け止めは、おおむね「そんなこと、言えるはずはない」という冷ややかなものだった。自衛隊には「沈黙」の文化が根強い。無理難題を命じられても、黙って従うべきだと。だけど、もう、限界に近いのかもしれない。あれもこれもと現場の実態も気にせずに命じられたら、「それは無理です」とはっきり言わなければならないと、私は思う。

     平成最後の夏、私は戦争の悲惨さを追体験する記事を読みあさりつつ、一方で、自衛隊の「いま」のしんどさについて、考えたのだった。誰かに「しんどさ」を強いている平和は長続きしないと思うのだ。

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    プロフィール

    滝野隆浩

    滝野隆浩

    社会部編集委員

    1983年入社。サンデー毎日記者、前橋支局長などを経て社会部編集委員。著書は「宮崎勤精神鑑定書」「自衛隊のリアル」など。