
小沢一郎が衆院議員在職50年を迎える。
1969(昭和44)年12月の衆院選(佐藤栄作内閣のもとでの総選挙、選挙を差配した自民党幹事長は田中角栄)で27歳の若さで当選した小沢も風雪50年、喜寿(77歳)となった。
自民党のプリンス、最高実力者と言われ、自民党離党後も政界のキーパーソンと目されたが、民主党政権瓦解(がかい)後は、ミニ政党の代表に長く甘んじた。自民離党後、現在の国民民主党(総合選挙対策本部長相談役)まで9つの政党を渡り歩き、その過程で多くの同志、側近の離反(二階俊博自民党幹事長、藤井裕久元財務相、岡田克也元副総理ら枚挙にいとまがない)がついてまわる政治家人生だったことは間違いない。
「もう一度政権を取るまでは50周年の祝いは保留」と言う小沢だが、政治家としての小沢の同世代は多くが他界し、時の流れは小沢には冷酷である。見果てぬ夢となりそうだ。小沢の政治家人生の秘話を発掘するとともに、小沢とは何だったのかを振り返ってみたい。
田中角栄と小沢
小沢の政治的父親は、建設相などを務めた小沢佐重喜(さえき)というよりは、田中角栄元首相だろう。小沢の父佐重喜は藤山愛一郎派の大幹部だったが、小沢が日大大学院在学中に急死。母のみちが一郎に田中の門をたたくことを提案し、東京・目白台の田中邸へ足を運んだ。
田中は小沢を見て一目で気に入ってしまう。田中には4歳で夭折(ようせつ)した正法(まさのり)という長男がいたが、生きていれば小沢と全くの同年齢というのだ。
「他人とは思えない」。田中が小沢を秘蔵っ子のようにかわいがったのは、こうした背景があった。ちなみに田中派系統の政治家では竹下登も野中広務も長男(しかも一人息子)を幼いころに亡くしている。
小沢の同期生には、梶山静六、羽田孜、渡部恒三、2期上(63年衆院選当選組)には橋本龍太郎、小渕恵三らがいた。42年生まれと一番年若い小沢には建設政務次官や派閥の事務局長のポストが与えられ、田中派のプリンスと言われるようになる。小沢も田中にはつくした。ロッキード事件の東京地裁公判(6年9カ月、191回)には一度も欠席することなく傍聴し、田中を見守った。
しかし、小沢は刑事被告人である田中に次第に見切りをつけ、梶山や羽田と組んで竹下を田中の後継者と見立てた勉強会「創政会」を結成。田中は派内クーデターと怒り狂い、脳梗塞(こうそく)で倒れてし…
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