指導者の決意が歴史を作る 矜持を持って説明責任を果たせ

田中均・日本総合研究所国際戦略研究所理事長
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田中均氏=東京都港区で2019年7月10日、根岸基弘撮影
田中均氏=東京都港区で2019年7月10日、根岸基弘撮影

 先日長崎とサンフランシスコに続けて出張をした。長崎で出島や浦上天主堂、グラバー邸を訪れ、サンフランシスコでは北カリフォルニア日米協会の人々と岩倉具視遣米使節団の話で盛り上がった。私は、この出張の中で近代日本を形作った政治家がどれだけの覚悟をもって行動したかを再認識した。

 そして日本に帰国して、2閣僚の辞任劇に加え、大学入学共通試験への英語民間試験導入や「桜を見る会」のてんまつなど、十分な説明責任を果たすことなく幕引きを急ぐ様を見た。今日の政治指導者の「矜持(きょうじ)」のなさにあきれ、悲しい思いをした。

明治の元勲の決意

 歴史の一時期、長崎とサンフランシスコはつながっていた。200年続いた江戸幕府の鎖国で出島はオランダとの交易の場であったが、1853年にペリーが浦賀に来訪し、鎖国は解かれ、1859年にオランダ商館も閉鎖され、出島は終わりを告げた。

 そして新たに開港された横浜港から岩倉具視遣米使節団が蒸気船「アメリカ号」で出発したのは鎖国が終わりを告げておよそ10年後の1871年(明治4年)の事だった。岩倉ミッションは当初は2カ月程度の米国訪問を予定していた。ところが米国の滞在は8カ月に及び、米国から欧州にわたり、結果的には2年近い旅となった。

 当時の内閣の閣僚の半分が参加した訪米団であり、明治に入ってわずか4年後の事で、国内政治が安定しているはずもなかったことを考えれば、岩倉など明治の元勲は驚くべき決断を行った。結果的には日本の迅速な近代化の鍵はこの長期にわたった岩倉ミッションにあった。

 岩倉ミッションが最初に米国の土を踏んだのはサンフランシスコだ。サンフランシスコには前年にワシントンの公使館に先立って領事館が開設されていた。総領事公邸には岩倉ミッションがサンフランシスコで撮った写真がある。中央に座る岩倉具視は何と羽織袴(はかま)、丁髷(ちょんまげ)姿に靴を履いたうえ山高帽を所持する姿だ。そこに写っている木戸孝允、伊藤博文、大久保利通などは完全な洋装であるのだが。岩倉は日本の伝統にこだわったが、シカゴに到達した時点で潔く丁髷を切り洋装になったそうだ。

愚かな戦争と吉田茂の決意

 私は20年前にサンフランシスコの総領事をしていたが、サンフランシスコ総領事公邸からはサンフランシスコ湾にかかるゴールデンゲート・ブリッジ(金門橋)の全貌が見渡せる。両親が日本から私を訪ねてきた時…

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田中均

日本総合研究所国際戦略研究所理事長

1947年生まれ。69年京都大学法学部卒業後、外務省入省。オックスフォード大学修士課程修了。北米局審議官、在サンフランシスコ日本国総領事、経済局長、アジア大洋州局長を経て、2002年より政務担当外務審議官を務め、05年8月退官。同年9月より(公財)日本国際交流センターシニア・フェロー、10年10月に(株)日本総合研究所国際戦略研究所理事長に就任。06年4月より18年3月まで東大公共政策大学院客員教授。著書に『見えない戦争』(中公新書ラクレ、19年)、『日本外交の挑戦』(角川新書、15年)、『プロフェショナルの交渉力』(講談社、09年)、『外交の力』(日本経済新聞出版社、09年)など。