自公結びつけたのは「平和」への使命感

古賀誠・元自民党幹事長
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古賀誠氏=根岸基弘撮影
古賀誠氏=根岸基弘撮影

 1998年に自民党が参院選で惨敗し、参院で与党が過半数割れする「ねじれ」が生じる中で、連立案が浮上した。当時は自民党にも公明党にも抵抗感があり、自公のみで最初から連立を組むというわけにはいかなかった。衆院は94年に小選挙区制度が導入されるまでは中選挙区制度で、公明と激しい戦いをした人が私を含めて自民党にもいっぱいいて、最後の1議席を自公で争うという構図も多かった。

 そのため、まず模索したのが旧自由党との連立だった。(99年1月に)自自連立政権が発足する前年の98年8月15日は今でも忘れない。全国戦没者追悼式の後、(官房長官だった)野中広務さんらと集まり、参院のねじれを何とかしないと、小渕内閣はもたないと話し合った。ただ、互いのアレルギーを考えると、自民と公明を結びつけるには真ん中に「座布団」を敷く必要がある。当時の政界地図からすれば、自由党にお願いするのが一番現実的な路線だろうというのが、私と野中さんの結論だった。それで自自連立から自自公連立に進んでいくことになった。

 私と自由党の二階俊博国対委員長、公明党の草川昭三国対委員長の3国対委員長で連立の基礎を作った。小渕恵三首相も「それでよし、やってくれ」ということだった。二階さんとは古い付き合いがあり、非常に前向きで助けていただいた。(自由党党首の)小沢一郎さんの言うことは難しくて、無理難題をよく言ってきた。一つずつそれをクリアしたのだが、二階さんと顔を見合わせては苦笑いの連続だった。

 自自公の連立がまとまるときには、最終的には小渕首相と公明党の神崎武法代表が何回かトップ会談を隠れてやったと思う。マスコミには我々の会議に注目させておいてひそかにね。自自公連立には、小渕内閣の政治の安定というだけではなく、平和に対して強い信念のある公明党への期待もあった。

 自公連立が長く続いているのは、政治が安定する大切さに対し、それぞれの政党がしっかりと責任を持ったことが一番大きい。自公連立が果たしている大きな役割に対する使命感がしっかりあったのだと思う。

 選挙協力ありきの連立は本末転倒で、やはり公明党の政策、理念、哲学が自民党と一致していたことが重要。一番はやはり「平和」だ。一方で、連立で必要な過半数の議席の確保は常に重要で、選挙協力は当然のことだろう。

 だが、結果的に創価学会票が上乗せされ、自民党議員の、特に若手の足腰が弱くなって…

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古賀誠

元自民党幹事長

1940年生まれ。80年衆院初当選。10期。建設政務次官、運輸相、自民党国対委員長、日本遺族会会長などを務めた。2012年衆院選に出馬せず引退した。