政史探訪

荒れる子年 起きるか安倍退陣と奪権闘争

中川佳昭・編集編成局編集委員
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私邸に隣接する「箕山会」(岸派事務所)の庭で孫の安倍寛信ちゃん(右)と安倍晋三ちゃん(左、後の第90代、96代首相)と遊ぶ岸信介・自民党幹事長(当時)=東京都渋谷区南平台町で1956年11月、石井周治撮影
私邸に隣接する「箕山会」(岸派事務所)の庭で孫の安倍寛信ちゃん(右)と安倍晋三ちゃん(左、後の第90代、96代首相)と遊ぶ岸信介・自民党幹事長(当時)=東京都渋谷区南平台町で1956年11月、石井周治撮影

 2020年は子年(ねどし)だ。戦後の子年は例外なく、内閣の交代、奪権闘争が起きている。

 (注 1948年=芦田均内閣→第2次吉田茂内閣、1960年=第2次岸信介内閣→第1次池田勇人内閣、1972年=第3次佐藤栄作内閣→第1次田中角栄内閣、1984年=第2次中曽根康弘内閣下での二階堂進自民党副総裁擁立未遂、1996年=村山富市内閣→橋本龍太郎内閣、2008年=福田康夫内閣→麻生太郎内閣)

 今年は東京五輪・パラリンピックが開催され、安倍晋三首相の晴れ舞台となるが、一方で桜の会問題への対応や中国発の新型コロナウイルス肺炎への対応問題などが、安倍政権を揺さぶっている。

 自民党総裁任期(2021年9月)を待たずに、安倍首相が政権の座を降りる可能性も排除できないと思われるが、憲法改正を実現するまではと総裁4選に方針を変更して粘るケースもあるかもしれない。

 過去の子年はどうだったのか。岸→池田の政権移動の1960年と佐藤→田中の政権移動の1972年を中心に振り返ってみたい。

1960年

 ちょうど60年前にあたる。この年の1月、岸信介首相は訪米し、アイゼンハワー米大統領との間で、新日米安保条約(安保条約改定)の調印を行った。2020年1月、岸氏の孫にあたる安倍首相はアイゼンハワーの孫娘を東京に招いている。

 1960年、岸首相は国民的反対の強かった安保改定をやり終え、退陣する。岸内閣で総理府総務長官、労働相を続けて務めた松野賴三(1917~2006。吉田茂首相秘書官。後に岸、佐藤政権下で重用され、田中角栄らとともに佐藤派5奉行の一人に数えられた。晩年は小泉純一郎首相の「指南役」と言われた)は次のように振り返っている。

 松野は1960年前半は岸内閣の労働相を務めていた。同時期に2019年11月、101歳で死去した中曽根康弘(後に首相。松野とは初当選同期)は科学技術庁長官を務めていた。

 「警職法(警察官職務執行法)改正が挫折した時も岸さんはコツコツとやっていた。あれだけ大騒ぎの中で失敗したら普通なら頑張れない、腰砕けになる。しかし(1958年12月)3閣僚(池田勇人国務相、三木武夫経済企画庁長官、灘尾弘吉文相)が辞任しようと、岸さんは立ち直って安保改定に取り組んだ。このあたりは実に粘り強い。『両岸』というより、粘り腰の『両腰』の人だ。総理を辞めたとき暴漢に刺されたが、これからも平然と立ち直った。あの東条内閣、戦犯、復帰、総理の座、警職法、安保、そしてテロ、波乱万丈の生涯をみると、運の強さというものを感じさせる。

 戦後政治史の中で、岸さんは超弩級の怪物、吉田茂さんは実績における大政治家だろう。岸さんは一生通じて春秋に富む、いやそんな生やさしいものでない稀代の大怪物、吉田さんは大政治家だ」(政界六十年 松野頼三 2007年。初出は「松野頼三覚え書 保守本流の思想と行動」1985年…

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中川佳昭

編集編成局編集委員

1962年生まれ。89年毎日新聞社入社。静岡、浜松支局、東京本社政治部。政治部では首相官邸、自民党(小渕、橋本派)、外務省などを長く担当。大阪本社社会部(大阪府庁キャップ)、政治部与党、官邸クラブキャップ、政治部副部長、同編集委員、社長室委員兼編集編成局編集委員などを経て2019年5月から編集編成局編集委員兼社長室委員。