アメリカは変わってしまったのか

田中均・日本総合研究所国際戦略研究所理事長
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田中均氏=根岸基弘撮影
田中均氏=根岸基弘撮影

 今からおよそ20年前、サンフランシスコで日本国総領事をしていた頃に娘が通っていた私立女子高校のクラスで、女子生徒たちからいろいろな質問を受けた。「米国大統領による広島・長崎への原爆投下の決断をどう思うか?」が真っ先に受けた質問だった。

 どう答えるべきか一瞬迷ったが、「数十万の市民を一瞬にして殺戮(さつりく)したわけで、戦争につながった日本の行動がどうあれ、今日の価値観で判断すれば人道にもとる許されない行為だったと思う。ただ、今の価値観で過去を断罪するわけにもいかない。当時の米国の大統領は、より大きな犠牲を出さないように戦争を早く終わらせるという考えだったように思う」と答えた。国民の意識と価値観を踏まえた判断だったのだろうが、米国大統領の決断は重い。

米国の価値観は変わってしまったのか

 その米国大統領を選ぶ選挙が終盤に差し掛かり、トランプ大統領がコロナに感染し入院したことにより大統領選挙の見通しは著しく不透明となった。ただ、初回の大統領選テレビ討論会を見て慄然(りつぜん)とした。見るにたえない無頼の言い争いだった。米国大統領が討論のルールを無視し、事実に基づいたとは思われない非難を浴びせかけ、双方が口汚くののしる様は異様だった。

 このような討論はこれまでの米国では考えられないことであったが、時が移り、富裕者か貧困者か、保守かリベラルか、肉体労働者か頭脳労働者か、白人かマイノリティーかといった形で社会の分断が進んだ今、分断をあおり、分断された一方にくみする「乱暴」な議論をすれば自己を利すると考えたのであろうか。

 また大統領は最大の権力者であり、国の象徴であり、責任をとる最後の砦(とりで)である、といった米国の「Presidency」についての価値観は損なわれたということなのか。アメリカで時間をかけて培われてきた、公人は人種差別を匂わす、あるいは女性を蔑視するような言葉は厳に慎むべき、という「政治的公正性(Political Correctness)」の概念も雲散霧消したということか。

 国民の意識や価値観が変われば指導者もきれい事をかなぐり捨て、自己の利益に走るということか。トランプ大統領が掲げる「アメリカ・ファースト」も同じことなのか――。

 冒頭で述べた広島・長崎への原爆投下は、その後の価値観の変化により核を行使するという判断を著しく困難にしたという意味で、大統領の決断の重さを示す例として取り上げた。大統領選挙の討論会で見たのは、米国の価値観が著しく劣化し、大統領の威厳も喪失してしまった様(さま)だった。

米国社会の…

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田中均

日本総合研究所国際戦略研究所理事長

1947年生まれ。69年京都大学法学部卒業後、外務省入省。オックスフォード大学修士課程修了。北米局審議官、在サンフランシスコ日本国総領事、経済局長、アジア大洋州局長を経て、2002年より政務担当外務審議官を務め、05年8月退官。同年9月より(公財)日本国際交流センターシニア・フェロー、10年10月に(株)日本総合研究所国際戦略研究所理事長に就任。06年4月より18年3月まで東大公共政策大学院客員教授。著書に『見えない戦争』(中公新書ラクレ、19年)、『日本外交の挑戦』(角川新書、15年)、『プロフェショナルの交渉力』(講談社、09年)、『外交の力』(日本経済新聞出版社、09年)など。2021年3月よりTwitter開始(@TanakaDiplomat)。毎日リアルタイムで発信中。YouTubeチャンネル(@田中均の国際政治塾)。