京都で起きた難病・筋萎縮性側索硬化症(ALS)の嘱託殺人事件を受け、同じ病を患う参院議員の舩後靖彦氏が、<ALS患者嘱託殺人 誰もが「生きたい」と思える社会を>という論稿を書いた。
「尊厳死や安楽死の議論の前に、まずはだれもが『生きていたい』と思えるような環境、社会づくりを」という舩後氏の主張をどう受け止めるか。さらに、「死の自己決定権」や新型コロナウイルスの感染拡大でしばしば話題になる「命の優先順位」をどう考えるか。読者に呼びかけたところ、多くの意見が寄せられた。
まず私が感銘を受けたのは、この問題を経済合理性の観点で語ろうとした人が、今回ひとりとしていなかったことだ。京都の事件では、難病患者の依頼を受けて薬物を投与して死に至らしめた医師のひとりのSNSアカウントが特定されたが、「回復の見込みがない難病や高齢の患者の医療を続けるのは、カネとマンパワーの無駄」といった内容の投稿が多くを占めていた。
それに対してネットでは批判の声が渦巻いたが、一部ではあったものの「この医師の言うことは正論」などと評価する人がいたのも事実だ。さらにごく一部には、「仕事もできず生産性がない人たちには生きる価値はない」という優生思想的な発想から、尊厳死や安楽死を積極的に認めようとする声もあった。
さらに事件が発覚した7月23日、日本維新の会代表の松井一郎代表が「維新の会国会議員のみなさんへ、非常に難しい問題ですが、尊厳死について真正面から受け止め国会で議論しましょう」とツイッターで呼びかけた。これにも「殺人事件が判明した当日に尊厳死の議論を呼びかけるとは」という非難とともに、「お願いします」「必要かと思います」と肯定する声もあった。
こうした流れを受けて、医療財源の節約といった経済合理性の観点から一気に尊厳死や安楽死の法制化の動きにまで進むのでは、と私も一時は緊張した。
しかし、今回寄せられた意見の多くは、舩後氏に賛意を示すものだった。のちほど紹介する「議論は必要」という人もあくまで患者自身の観点に立って見解を述べており、「このままじゃ医療費のムダづかい」「生かしておく必要はない」などの経済至上主義や優生思想からそれを語ろうとはしていなかった。
人間としてそれはごくあたりまえのことなのかもしれないが、最近の世相はとかくすさんでおり、私など「誰もが生きられる社会を」という言葉を口にするだけで、SNSでは「きれいごとを言うな」「じゃあなたが障害のある人、全員を面倒見ろ」といった攻撃が飛んでくる。その中で今回のような誠実な意見を目にすると、それだけで心が洗われるような気がした。
今回は、障害や病気の当事者や家族の方も多く意見を述べてくれた。脊髄(せきずい)損傷の障害がある『木村俊夫』さんは、はっきりと「少なくとも今の日本の自己責任論や生産性云々(うんぬん)、弱者切り捨ての風潮が蔓延(まんえん)している社会で…
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