ウェストエンドから

離脱「第2幕」の混乱は、英国分裂の可能性を強めるか

服部正法・欧州総局長
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ウェールズ自治政府の建物。入り口の表示は英語とウェールズ語が併記され、ウェールズの象徴の竜が描かれている=ウェールズ南部カーディフで2020年10月13日、服部正法撮影
ウェールズ自治政府の建物。入り口の表示は英語とウェールズ語が併記され、ウェールズの象徴の竜が描かれている=ウェールズ南部カーディフで2020年10月13日、服部正法撮影

 9月29日に英下院を通過した1本の法案が英国と欧州連合(EU)の関係を大きく揺るがしている。「英国国内市場法案」。ブレグジット(英国のEU離脱)に当たり、英国とEUが結んだ離脱協定の中身の一部を、英政府が一方的に変更できるとする内容だ。EUは「国際法違反」と猛反発し、今後の英国の出方次第ではEU司法裁判所への提訴も視野に入れる。

 英EUの対立再燃の火種と見られがちなこの法案だが、英国内でも物議を醸している。自治権を持つスコットランドやウェールズが法案の中身について、英政府による地方からの「パワーグラブ」(権限の奪取)だと批判を強めているのだ。ブレグジット問題の混乱を経て、親EU派住民が多いスコットランドではすでに英国からの独立機運が高まり始めている。国内市場法案を巡るブレグジット「第2幕」の混乱は、英国の「分裂」への動きを加速させるだろうか。

 2020年1月31日をもってブレグジットは終了した――そう思われている方も多いかもしれないので、まず少しおさらいをしたい。

 離脱は実現した。しかし、現在の英国は激変緩和措置としてEU加盟中と大きく状況が変わらない「移行期間」にある。英EUは移行期間終了後に向け、自由貿易協定(FTA)を結ぼうと交渉を重ねているが、これまでのところ妥結に至っていない。20年12月31日の移行期間終了と同時にFTAを発効させるためには10月中の合意が必要とされ、交渉はまさにヤマ場に入っている。

 そんなさなかに国内市場法案が浮上した。

 英政府が9月9日に英議会に提出した法案は、アイルランド島内にある英領北アイルランドと、陸続きのEU加盟国アイルランドの間の国境問題を巡る離脱協定の条項の中身を、英政府の一存で変えられるとの内容が入っていたのだ。

 16年の国民投票で「支持」との民意が出たブレグジットの実現が何度も延期され、この間ずっと、離脱協定なしの「合意なき離脱」に突入する危険が懸念されてきた最大の理由は、北アイルランド問題にあった。

 北アイルランドでは英国の統治継続を望むプロテスタント住民の「ユニオニスト」と、アイルランドへの併合を願うカトリック住民の「ナショナリスト」とが対立して、1968年から30年間、両派の過激派などによる武装闘争の「北アイルランド紛争」に発展し、約3500人の犠牲者が出た。98年の和平合意は、北アイルランドが英国の一部であると明記したうえで、将来の帰属については住民の意思に委ねた。そして、北アイルランド住民には英国、アイルランド両方のパスポート保有を可能にし、北アイルランドとアイルランドの間の自由往来が実現した。事実上の国境の無効化である。

 和平合意から約20年、和解の進展に伴ってアイルランド島内の南北の融合は以前に比べ、大きく進んだ。そこに、北アイルランド住民からすれば降って湧いたような出来事がブレグジットだった。離脱となれば、英国とEUとの間に厳格な国境管理が必要となり、それに伴って事実上無効化していたアイルランド島内の国境を再度顕在化させることは、和平合意に反し、再び北アイルランドの政情不安定化をもたらしかねない。どこでどのような国境管理を行うか。この課題に対し、当事者の多くが納得できる適切な解がなかなかみつからなかったことが、離脱協定締結を難しくした。

 英国は、グレートブリテン島のイングランド、スコットランド、ウェールズと北アイルランドという四つの「国」を合わせた形の連合王国である。最終的に結ばれた離脱協定では、北アイルランドを含めて英国全体がEUから脱退するが、北アイルランドにはEUの関税ルールも適用する。そして、北アイルランドとアイルランドの国境で税関検査などの厳格な国境管理を行わない代わりに、グレートブリテン島と北アイルランドの間で通関業務を行うことにした。

 これで一件落着したはずだったが、そうはならなかった。

 国内市場法案の議論が英政府内で持ち上がっていることを最初に報じた英紙フィナンシャル・タイムズによると、離脱実現が目前となった20年1月、英政府の官僚が官邸に警告を発した。離脱協定の条項では、北アイルランドでは企業に対する国家補助金についてEUのルールが適用されることになっているが、条項の解釈によっては北アイルランド外の英企業に対する補助金もEUルールの縛りが適用されて規制を受けかねない--との内容だったという。

 また、北アイルランドから英国内の他の地域に物を動かす場合、同じ国内であっても通関手続きが必要となるため、企業は事実上の輸出申告書を作成しなければならない。英紙デーリー・テレグラフは、この点について離脱強硬派が、北アイルランドから他の英国の地域への自由なアクセスが保障されなくなる懸念を強めたとも報じた。

 こういった危惧から、英政府は▽北アイルランドでの国家補助金の適用については英政府に決定権がある▽北アイルランドからグレートブリテン島に、チェックなしで物を流入させることができる――内容を含む法案を作成した。ジョンソン首相は同法案の提案理由について「極端で非合理な協定から国を守るため、法的なセーフティーネットが必要だ」と説明。懸念のあるいくつかの点について、英側が修正できる法案を提出したのだ。

 「ごく個別で限定的」(ルイス北アイルランド担当相)としながらも、英政府は今回の法案に国際法違反の部分が含まれていることを認めている。国際法違反が批判を受けるのは当然だが、それも承知のうえで法制化を目指す英政府の「執念」の背景となっているのは、ブレグジットの必要性を唱えてきた離脱強硬派の主張の根幹といえる「EUからの主権の回復」であることは容易に想像できる。政府による国家補助金の決定はまさに主権の問題と絡んでおり、簡単には譲れないのだ。英国とEUが現在行っているFTA交渉でも、補助金問題が妥結に向けた最大の難関の一つになっている。

 「執念」の背景にあるもう一つの側面は、英国の「一体化」の問題だ。北アイルランドと英国の他の地域との間の「自由なアクセス」が阻害されることは看過できない、という思いだ。

 紛争と和解の経過があるため、北アイルランドには英国の他の地域とは異なった特殊性がある。しかし、特殊性があるからといって、北アイルランドをアイルランドやEUと同一な条件に置くことを際限なく認めてしまえば、連合王国としての統一性が損なわれ、北アイルランドはアイルランド側にどんどん近づいていってしまう――離脱派や保守派はこう考える。国の主権は領土全体に及ぶべきものであるから、EUからの主権の回復と国の統一性維持は密接な関係を持ち、保守派の言説の中では不可分なものとなっている。

 国の統一性維持という観点からこの法案を考えると、その影響は北アイルランドにとどまらない…

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服部正法

欧州総局長

1970年生まれ。99年、毎日新聞入社。奈良支局、大阪社会部、大津支局などを経て、2012年4月~16年3月、ヨハネスブルク支局長、アフリカ特派員として49カ国を担当する。19年4月から現職。著書に「ジハード大陸:テロ最前線のアフリカを行く」(白水社)。