アフリカン・ライフ

リアル北斗の拳? 鉄道略奪で見えた南アフリカの素顔 前編

平野光芳・ヨハネスブルク支局長
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架線がなくなったアングラース駅。地元の若者たちがホームで談笑していた=南アフリカ・ヨハネスブルクで2020年10月26日、平野光芳撮影
架線がなくなったアングラース駅。地元の若者たちがホームで談笑していた=南アフリカ・ヨハネスブルクで2020年10月26日、平野光芳撮影

 日本で見慣れているはずの鉄道の風景なのに、どこか違和感があった。例えて言うなら、「間違い探し」をしているような感覚と言えばいいだろうか。それもそのはず、ここは世界で最も厳しいと言われるロックダウン(都市封鎖)を経た南アフリカ・ヨハネスブルクの「略奪現場」なのだから。

 私がその現場に立ったのは、10月26日のことだった。視界のかなたまで続く電柱とはりには、どこまで行っても電線が架かっていない。足元を見ると雑草が枕木の間から生え、ひざ丈ほどまで伸びている。半年以上も電車が走っていないのだから無理はない。雑草は日本で見かけたことがないケシの一種で、黄色いかれんな花が妙にいとおしく思えた。「ここまでとは」。その荒れた光景に私は目を疑うしかなかった。そして、自分が赴任できずにいた半年余りの間にこの国で何が起きていたのか、現実の厳しさに改めて思いを巡らせた。

在宅勤務中に日本で知ったニュース

 私は3月まで奈良市の奈良支局にいた。デスクとして支局の記者に取材を発注したり、送られてきた原稿をチェックしたりするのが仕事だった。そして4月1日付でアフリカのサハラ砂漠以南の49カ国を担当するヨハネスブルク支局に赴任する予定になっていた。ところが南アフリカ政府は3月下旬、新型コロナウイルスの感染拡大を受けてロックダウンを実施する。食料品の買い出しや医療機関の受診だけが認められ、ジョギングなど屋外での運動も禁止する徹底ぶりだった。国境を閉鎖し、国際線も原則全て休止。3月30日に関西国際空港から家族4人で渡航するはずだった航空券は、ただの紙切れとなってしまった。

 やむを得ず、4月から日本で在宅勤務をしながら待機することになった。現場取材ができないのは記者にとって痛恨の極みだが、インターネットなどでアフリカの地元ニュースをチェックする時間だけはたっぷりとあった。

 南アフリカの鉄道路線で設備の略奪が進んでいるらしい。そんなニュースに接したのは9月のことだった。地元メディアによると、3~6月にロックダウンで運休している間に設備の略奪や破壊が相次ぎ、通勤電車34路線のうち運行できているのは7路線だけ。全面再開のめどは立たず、経済的な打撃も大きくなりそうだ――。そんな内容だった。

 日本は世界に類を見ないほど鉄道網が発達した国だ。東京の地下鉄はまるで迷路としか言いようがないし、新幹線が北海道から九州まで走る。「正確で安全」という鉄道への信頼とプライドが日本人の心理に深く根ざしているためだろうか、海外ニュースでも鉄道関連の話題は注目度が高い。「国際線が再開して南アフリカに赴任できたら、真っ先にこの現場を見てルポを書いてみたい」と私は一人、決意した。

 チャンスはほどなくしてやってきた。南アフリカ政府は10月1日に国際線を再開し、半年ぶりに外国人の入国を認めると発表したのだ。

 日本から南アフリカまでの直行便はない。そのため私は10月17日、成田空港から中東カタール経由でヨハネスブルクに向かった。カタールまでは12時間、2時間半の乗り継ぎを経て、さらに9時間のフライトというほぼ丸一日がかりの長旅だ。日本との時差は7時間。時差ぼけになるかと心配だったが、機内での時間があまりに長すぎて時間の感覚がなくなってしまったというほうが正確だった。

 ヨハネスブルク国際空港では、入国審査の前にサーモメーターでコロナ対策の検温があった。日本出国前に取得したPCR検査の陰性証明書を提示すると、あっさりと入国のスタンプを押してもらえた。南アフリカでは陰性証明を提示した上、発熱などの症状がなければ、入国後の隔離は求められない。空港から出れば即自由の身だ。原則14日間の自主隔離が必要な日本政府などの対応と比べると「緩い」とも言える。

 南アでは人口約5800万人に対して新型コロナの感染確認は75万人に上り、2万人が死亡した。政府は国民の2割程度が既に新型コロナに感染した可能性があると見ている。最近は1日の新規感染者数が2000人程度で落ち着いているが、ウイルスを完全に封じ込めることができない以上、感染拡大防止と社会・経済活動のバランスを取りながら生活する「ウィズコロナ」を地でいく政策にかじを切っている。

ここはオーストラリアか?

 「オーストラリアみたいだ」。それが、空港を出て、迎えの車で支局兼住宅まで向かった時の街の第一印象だった。私は2014~18年にインドネシア・ジャカルタで特派員を務めていた。かなり離れてはいるがオーストラリアも担当地域で、選挙や安全保障、イスラム過激派などのテーマで度々出張で訪れたことがある。

 降水量が少ないため日本のような青々とした森は少ないが、青空がきれいで空気はカラッとしている。6車線もあるゆったりとした高速道路にはスポーツタイプ多目的車(SUV)やピックアップトラックが多く走り、出口を抜けると広い庭付きの邸宅が並んでいた。街中の看板は英語で、車は右ハンドル。やはりオーストラリアに似ている。ヨハネスブルクはインターネット上では「最凶都市」とやゆされるほど治安の悪さで有名なのに、先進国と変わらぬ光景に、支局に到着してもいまいちピンとこなかった。それには相応の理由があることを後に知った。世界トップクラスの貧富の格差が背景にあったのである。

 南アでは20世紀に入り、人種隔離政策「アパルトヘイト」が進んだ。人口では2割以下の白人が政治、経済、文化、教育などあらゆる面で優位に立つ一方、有色人種には選挙権すらなく人権が著しく制限された。黒人らで結成された「アフリカ民族会議」(ANC)が反対闘争を繰り広げ、そのリーダーがネルソン・マンデラだ。闘争や国際世論の後押しもあり、アパルトヘイトは1991年に廃止に至った。

 ところが制度上の差別がなくなっても、経済的な格差は残ったままだ。世界銀行によると、所得の貧富の格差を示すジニ係数は、南アは0.62で世界トップ。上位3500人が保有する資産が、下位9割のそれとほぼ同じだというのだから、いかに格差が大きいかを物語る。ちなみに日本のジニ係数は0.329だ。

 こういった社会の矛盾を背景に犯罪も多く、1日平均58件の殺人事件が起きている。日本の外務省は「生命や性の尊厳が軽視され,いとも簡単に人が殺傷されてしまう凶悪犯罪が頻発している」と分析し、旅行者や在留邦人に注意を呼びかけている。

 何のことはない。私が空港から家まで見ていたのはこの国の「先進国」の世界。高さ3メートルの塀と電流フェンスに囲まれた家の中で暮らす「井の中のかわず」に過ぎなかったのだ。

安全に取材できるのか

 「鉄道が略奪された現場に行ってみたい」。着任して数日後、私は支局助手のケレ(59)に電話でこう伝えた。ケレは黒人で本業は俳優だ。旧黒人居留区(タウンシップ)のソウェト地区に住む。縁あって20年以上、毎日新聞ヨハネスブルク支局の非常勤助手を務め、歴代の特派員が世話になってきた。記者が取材で行きたがるのは普通の日本人が行かないような「危険な場所」が多い。ケレは広い人脈を生かしてどんなリクエストにも応えてきた百戦錬磨のベテランだ。「まかせろ」。ケレからの返事は何よりも心強かった。

 最初の取材日は10月26日と決まった。ケレと一緒にソウェトを中心に車で回ることとなった。取材日が迫るにつれて期待が高まる一方、もやもやと不安になってきたのが「自分の安全は確保できるのか」という問題だった。

 日本の旅行ガイド本では、ヨハネスブルクについて「街中を歩くことはよほどのことがない限り避けるべきだ」とある。さらに同じヨハネスブルクでも、支局兼自宅があるサントン地区からソウェトまでは40キロ以上離れていて、高速道路を使っても1時間弱かかる。異国の地でいきなり高速道路に乗って、危険な地帯を巡るのはちょっとどうか――。ケレに支局まで迎えに来てもらうという手もあるが、あいにくケレの車は故障中だった。コロナの影響で本業が休業状態で、多額の修理代がなかなか工面できないでいるという。マイカーで現場を回るのは仕方ないとしても、治安の悪い屋外に何度も車を止めたら、自動車盗にでも遭わないだろうか。そんな妄想が膨らんだ。

 前日の25日夜、「弱虫」と笑われるのを覚悟でケレに電話をしてみた。「歴代の特派員とずっと仕事をしてきたケレに聞くには愚かな質問だけど、明日は安全に行けるかな」。ケレは不安を見透かしたように「問題ない」と笑った。説明によればケレの家の周辺は地元出身の人が多く、「よそ者」や海外からの移民は少ない。そのため住民同士の監視の目があり、他の町と比べても安全だから私が一人で来ても大丈夫だという。問題は取材現場での間の安全確保だが、ケレは「心配するな。2人用意するから」という。「2人」とは何なのかよく分からなかったが、これだけ念を押したのだから大丈夫だろう。自分をそう納得させてベッドに入った。

衝撃の…

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平野光芳

ヨハネスブルク支局長

2001年入社。大津支局、福井支局敦賀駐在、大阪社会部、ジャカルタ特派員、奈良支局などを経て20年からヨハネスブルク支局長。共著に「なぜ金正男は暗殺されたのか」