世界時空旅行

古代文字を習って考えたこと 世界一役に立たない語学の勉強記

篠田航一・外信部記者
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エジプト北部サッカラにある「階段ピラミッド」=2017年4月、篠田航一撮影
エジプト北部サッカラにある「階段ピラミッド」=2017年4月、篠田航一撮影

 中東を担当するカイロ特派員時代、私は家庭教師を付けて語学を勉強していた。といってもアラビア語ではない。ペルシャ語やヘブライ語でもない。今や地球上で誰も日常言語として使っていない古代エジプト語のヒエログリフ(神聖文字)である。考古学専攻のエジプト人の大学院生に頼み込み、週1回、2時間の授業を受けていた。

 なぜそんなことを思い立ったのか。

 きっかけは2017年4月、カイロ着任早々にエジプト北部サッカラの「階段ピラミッド」近くにある壁画を取材した時のことだ。案内してくれた考古学者のアイマン・ガマル氏が碑文を見ながら「この文字は『家』を表します」などとスラスラ説明することに驚いてしまった。専門家なので当たり前と言えばそれまでだが、ヘビや鳥といった象形文字が、読む人が読めばスーッと意味の通る文章になり、まるで魔法のように解読されてしまうのを目の当たりにして思わず感動してしまったのだ。

 取材の終わりにガマル氏から言われた。「実はヒエログリフは日本人に向いている言語なんですよ。あなたも勉強してみては?」。なぜ日本人に向いているのか。その理由は後述するが、いずれにせよその一言で背中を押され、おそるおそる勉強を始めたのが最初だった。

 古代文字なんか勉強していったい何の役に立つのか。周囲からそう言われたこともある。確かに現代の中東政治・外交を取材する特派員としては、今、目の前で現地の人々が話している言葉を勉強するのが筋だろう。

 仕事に役立ったかといえば、確かに役立っていない。ではなぜ勉強したのか。

 新年度を迎え、気持ちも新たに習い事を始めたくなる人も多いだろう。未知の語学にチャレンジしたい人もいるかもしれない。実用的でないことを学ぶことで何を思ったか。本稿はその体験記である。

暗号解読のスリル

 意味を成さない絵の羅列が、突然意味を持ち、眼前に浮かび上がってくる。最初にその興奮を覚えたのは小学生の時に読んだ本だった。名探偵シャーロック・ホームズが活躍するコナン・ドイルの短編「踊る人形」である。手紙に記された謎の人形の絵。右手を上げた人形、旗を持った人形、こうした数々の人形は何を意味するか。これは暗号で、未読の方へのネタバレは避けたいのでこれ以上は控えるが、謎が解けた時の驚きは今も忘れられない。象形文字の解読は、これと似た興奮を味わえるのではないか。そんな興味もあった。

 知人に紹介された家庭教師と初めて待ち合わせたのは、カイロ大学の近くにあるビルの一室だった。テーブルと椅子だけの質素な空間で、学生たちがノートを広げ、互いに教え合ったりしている。いわば自習室で、1時間10エジプトポンド(約70円)を払えば誰でも利用できるフリースペースだ。

 ヘジャブ(イスラム教徒の女性が髪を隠すスカーフ)を巻いた女性が入ってきた。エマン・アフマド・アフマド氏。20代後半。小学校でアラビア語や歴史を教える教員をしつつ、カイロ大大学院の修士課程に籍を置き、古代エジプト美術などを学んでいる。この部屋で授業をするので正確に言えば「家庭」教師ではないが、彼女は私の勉強を支えてくれた恩師となった。

 授業は熱心だった。ヒエログリフには表音文字と表意文字があること。左からも右からも書けること。最初にこうした基本構造を英語で分かりやすく説明してくれた。そして彼女はどんどん文字をノートに書き出す。「よく見て、自分でもたくさん書いて。新しい文字を覚えるには大量に書くのが一番です」

 授業を受ける前、英語や日本語で書かれたヒエログリフの本を何冊か買って、パラパラめくる程度はしていた。だが教師がいると真剣さが違ってくる。本音をいえば「カネを払った分、もとを取りたい」という気持ちも大きい。

 一方で教師の熱量が素直に響くのも事実だ。今や地球上で誰も話していない言葉。日常生活に決して役に立たない言葉。それをこうして必死に教えてくれる教師がいることに、ふと感動すら覚えてしまう。先生自身、「私は誰であれ、ヒエログリフに興味を持ってくれる人がいることがうれしいのです。古代文字を見て、書いている時は本当に幸せ。だからこのレッスンは私の楽しみでもあります」と話していた。

 あっという間に2時間がたった。交通費を含めて約束の2時間250ポンド(約1750円)を支払う。楽しい時間だった。

ノートは鳥だらけに

 文字を習った最初の印象は「やたらと鳥が多いな」というものだ。…

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篠田航一

外信部記者

 1973年東京都生まれ。97年入社。甲府支局、東京社会部、ベルリン特派員、青森支局次長、カイロ特派員などを経て現職。著書に「ナチスの財宝」(講談社現代新書)、「ヒトラーとUFO~謎と都市伝説の国ドイツ」(平凡社新書)、「盗まれたエジプト文明~ナイル5000年の墓泥棒」(文春新書)。共著に「独仏『原発』二つの選択」(筑摩選書)。