
人間の感情で、最も処理することが難しいのがアイデンティティーだと思う。人は誰も複数のアイデンティティーを持っている。これらのアイデンティティーの間で、ときどき相克が起きる。筆者の場合、三つのアイデンティティーが重要だ。
第1は、外交官としてのアイデンティティーだ。元外交官で対ロシア外交やインテリジェンス業務を担当した経緯があるので、筆者は日本国家に対する思いが強い。
国際関係について考える場合も、国家主権を中心に考える傾向がある。また、コロナ禍のような危機に直面すると、現行憲法の下で民主的手続きによって選出された首相(その固有名詞は重要でない)の下に結集すべきだという意識が強まる。
第2は、キリスト教徒としてのアイデンティティーだ。筆者は同志社大学神学部と大学院で組織神学(キリスト教の理論)を学んだプロテスタントのキリスト教徒である。毎日曜日、教会に通っている。キリスト教は筆者の核心を形成するアイデンティティーだ。
キリスト教によると人間は、真の神で、真の人であるイエス・キリストを信じることによって救われる。キリスト教徒にとって国家や民族の差異は本質的意味を持たない。
第3は、沖縄人としてのアイデンティティーだ。「沖縄の人」とか「沖縄県にルーツを持つ」と表記せずに、沖縄人と書いていることに留意してほしい。筆者の父は東京の出身だが、母は沖縄の久米島(沖縄本島から西約100キロメートルに所在する離島)の出身だ。
筆者は沖縄に住んだことはない。しかし、筆者の中には沖縄人であるとの確固たるアイデンティティーがある。しかもそのアイデンティティーが過去20年で変容した。かつては沖縄にルーツを持つ沖縄系日本人という意識だった。それが今では、日本にもルーツを持つ沖縄人だという意識に変わった。
そのきっかけは、鈴木宗男事件に連座して、2002年5月14日に東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、東京拘置所の独房に512日間勾留されているときだった。獄中では学生時代から読みたいと思っていた古典や学術書を中心にひもといた。その一冊が沖縄の古典歌謡集『おもろさうし』(外間守善校訂、岩波文庫、上下2巻)だった。この本を読んでいるうちに自分が沖縄人であるとの自覚を強く持つようになった。
筆者が北方領土交渉に文字通り命懸けで取り組んだのも、沖縄人である筆者にとって日本が自明の存在ではないからだ。北方領土問題に一生懸命取り組んでいくことによって、筆者は「日本人になっていく」ことを無意識のうちに考えていたのだと獄中で認識した。
筆者が自らを日本系沖縄人と記すのは、沖縄と日本の間で死活的な利害相反があったとき、筆者は沖縄の立場を取るという意思を示したいからだ。…
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