男女雇用均等法の35年 法律が社会を変えた

赤松良子・元文相
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赤松良子氏=宮本明登撮影
赤松良子氏=宮本明登撮影

 労働省(現厚生労働省)婦人少年局長として男女雇用均等法(1985年成立、86年4月施行)制定に関わったころは、経営者の頭のなかは「あなたは女を差別しているとおっしゃるけど何が悪いのか」という感じでした。

 「当たり前だ。女は働いていない」とおっしゃる。「働けないように作り上げているのがあなたたちだ」と言いたかった。

経営者一人一人に会って説得

 局長室から、経団連の副会長クラスの大企業のトップに一人一人、会いたいといって電話をしました。局長が会いたいと言えばなかなか断れません。「女性を管理職に就けておられないようですが、そういう方針ですか」と聞くと、「方針というわけではないが……」とむにゃむにゃと言われる。

 「やっぱりそれは時代遅れですよ。国際的に見てこんな国は先進国にはない。そんなことでは恥ずかしいので女性の差別をなくしてください」と言いました。実際に改善してくれた会社もあります。一人一人、何十人も会いました。

 企業側には罰則を恐れる気持ちがありました。「女性の差別をなくしてくださいという法律だ。心配はあるだろうがはじめからきつい法律は作らない。ソフトなところから出発する」と説明しました。

 雇用均等法は、最初は多くは努力義務規定で強行規定(強制的に適用される規定)ではなかったのです。募集、採用、昇進、昇格、解雇まですべて規定していますが、制定当時は強行規定は解雇の部分だけでした。

 そのため当時はすべて強行規定にすべきだ、とさんざん批判を受けました。労働省の局長室にいると下で元気な女性たちが「赤松出てこい」とやっていて、女性の敵のように言われました。

 しかし最初から完全なものではなくても法律を一度作れば、少しずつ、改正を重ねて良くしていけます。実際にその後の改正ですべて強行規定になりました。私は一歩ずつやろうと思って我慢してやっていました。

助けてくれた自民党政治家

 国連日本政府代表部公使(79年~)を務めて帰国後の82年に労働省婦人少年局長に就いたのですが、藤尾正行さんがちょうど労相を辞めたばかりの時でした。労働省内の評判では「怖い人だ」ということで、みな恐れおののいていた。リベラルな人というわけではありません。ものすごく頑固で、けれども筋は通す方でした。

 お会いして「女性の差別というのは国際的にみてダメだとなっているのに、日本は旧態依然として差別しているのはおかしい。ものすごく恥ずかしい。なんとか力を貸していただけませんか」と言いました。そしたら「よし」と。一度、うんと言ったらとても頼りになる方でした。

 すぐに自民党政調会長になり、我々の味方になっていろいろやってくださいました。官房長官が藤波孝生さんだった時には電話をかけて「婦人少年局長が会いたいと言っているから、あんた会ってあげなさい」と言ってくれました。藤波さんが電話に出て「どうぞ、どうぞ、おいでください」と言われて、次の日ぐらいに会いに行きましたよ。

 藤波官房長官には「こういう法律がないのは先進国では日本だけだ。それをぜひ認識していただいて、官房長官が中心になってみんなに訴えてください」と頼んだら、藤波さんは「藤尾先生にも言われてますから」とおっしゃってね。…

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赤松良子

元文相

 1929年生まれ。53年労働者入省。79年国連日本政府代表部公使。82年労働省婦人少年局長。84年初代労働省婦人局長。86年駐ウルグアイ大使。93~94年細川、羽田内閣で文相を務めた。現在、日本ユニセフ協会会長。政治の分野への進出をめざす女性を支援するネットワーク「WINWIN」代表。