
アフガニスタンの首都カブールが陥落し、イスラム主義組織タリバンが実権を掌握した。2001年9月11日、国際テロ組織「アルカイダ」による米同時多発テロが起き、翌10月、米英はアフガンを根拠地としていたアルカイダと当時のタリバン政権への攻撃を開始した。くしくも「テロとの戦い」のスタートから20年の節目になろうかという時期。タリバンのカブール制圧の様子を見ながら、「この20年はいったい何だったのだろうか」という思いを抱く方も多いだろう。
大国が第三世界に軍事介入し、多くの犠牲を払ったうえで泥沼化する紛争から撤収を余儀なくされる例はこれが最初ではない。代表的な例としてはアフガン同様、米軍の撤収後、米国が支援してきた側の国が崩壊したベトナム戦争が挙げられる。今回のカブール陥落とベトナム戦争におけるサイゴン陥落の経緯を比較すると、カブール陥落を「サイゴン2.0(バージョン2)」と言ってもいいほど類似点が多いと感じる。
タリバンによる実権掌握は今後、難民の大量発生やイスラム過激派テロリスト勢力の再活性化などにつながりかねず、周辺地域や欧米などの社会情勢や国際秩序のあり方にまで影響を与える可能性がある。一方で私は、ベトナムやアフガンと同じように大国が軍事介入し、状況が好転しないままのある地域を、これまで特派員として取材し、注視してきた。この地域が「サイゴン3.0(バージョン3)」の事態に陥らないか、危惧している。
※注 ソ連(当時)によるアフガン侵攻も、大国の介入と撤退という意味でベトナム、今回のアフガンと同列で論じられると思っているが、本稿では特にサイゴンとカブールの陥落時の類似からひもとくため、ソ連については省略する。
ベトナム戦争の最終局面との類似点
米軍のアフガンからの撤収とタリバンの今回の実権掌握が、どれほどベトナム戦争の最終局面と似ているか。それぞれの経緯を少したどってみよう。
アフガンでは01年10月、米英がアルカイダとタリバンへの攻撃を開始。反タリバン勢力の軍閥の連合体「北部同盟」が大国の介入で勢いを強め、翌11月にカブールを落とした。タリバン政権の瓦解(がかい)を受け、国連の仲介で暫定政権が発足。民主国家建設を目指す道筋が整った。暫定政権トップに立ったハミド・カルザイ氏が大統領選などを経て14年まで長期政権を担い、その後は、今回のカブール陥落で国外脱出したアシュラフ・ガニ氏が政権を運営した。
タリバンに代わるアフガン政府の発足後も、米軍や北大西洋条約機構(NATO)加盟国の部隊が駐留し、政府を支援したものの、タリバンとの戦闘は続き、政府の全土掌握には至らなかった。紛争解決の出口が見えない中、米国のトランプ政権は20年2月、タリバンがアルカイダなどテロ組織との関係を絶つことなどを条件に、21年5月1日までに米軍を撤収することを約束する和平合意をタリバンと結んだ。21年1月に発足したバイデン政権は、時期は先送りしたものの撤収方針は踏襲し、8月末の撤収完了を目指した。
ところが、米軍が4月に撤収を開始し、7月上旬までに9割方の撤収作業を完了するほどになると、タリバンは攻勢を強め、8月13日までに第3の都市ヘラート、第2の都市カンダハルを相次いで制圧。そのまま一気にカブールに迫り、予測をはるかに上回るスピードで15日には首都を陥落させた。
一方のベトナム戦争。共産主義政権の北ベトナムと北ベトナムが支援する南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)に対し、自由主義陣営の南ベトナムと南ベトナム支援のため介入した米国が戦う構図だったが、戦争は泥沼化に陥り、米国は介入から11年後の1973年、和平協定を結んで米軍を撤収させた。後に残された南ベトナムに対し、北ベトナムとベトコンは攻勢を強め、75年4月、南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)が陥落し、南ベトナムは崩壊した。
両方の戦争に共通しているのは、長期にわたって現地で戦闘行為に従事してきた米国が、多数の米兵の犠牲や費用負担のために疲弊、国内では厭戦(えんせん)気分が広がり、米軍の撤収を決める▽そしてその後、米軍の支援を当てにしてきた政府軍が敵の進攻を止められず、首都を奪取されて国が崩壊する――という流れだ。
最終局面では、坂道を転がるがごとく事態が急展開し、政府軍が敗走に次ぐ敗走を重ねるのも一緒。あれよ、あれよという間に敵軍が首都に迫り、大規模な抵抗作戦もほとんど行われないまま、あっけなく首都が落ちる。あまりの事態の急変に、パニック状態となった一部の市民らが国外脱出のために米軍機などへの搭乗を求めて集まったりする様子も、米大使館員らが米軍ヘリで脱出したりする光景も同じである。
こういった最終局面の急変は、南ベトナム、アフガン双方とも政府内の腐敗や汚職がひどく、軍の規律が乱れ士気が低下していたことが影響したと考えられる。…
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